JAZZの歴史|第10回

JAZZ|第10回|バードの死

YouTubeよりテキスト引用 https://youtu.be/91EWZ-ol8fE

【ナレーション】 ビバップ、それは極めて高度なテクニックを必要とする音楽でした その演奏は複雑で早く、凄まじいエネルギーをプレイヤーから奪い取りました おなじみの曲やアンサンブルとは全く違って、全てがソロプレイヤーのインスピレーションやテクニック、 音楽的センスにかかっていたのです 常に新しい音を求める、実験的な演奏、その響きは時に難しすぎて聴衆を戸惑わせました ビバップの先駆者であり、そのトップをひた走るのはチャーリーパーカーとディジーガレスピーでした 二人の体から猛烈に溢れ出す、独創的なメロディー、リズム、音色は他のプレイヤーを寄せ付けませんでした 若手ミュージシャンにとって、二人は神様のような存在でした ビバップはソロプレイヤーの質を高めたばかりでなく、やがてバンド全体の演奏スタイルをも変えていくのです ニューヨーク、ジャズの新しい才能が集う大都会 1949年の秋、西55丁目のとあるアパートの地下室に、 次の世代のジャズを担う、そうそうたる顔ぶれが出入りしていました そこは才気溢れるアレンジャー、ギルエバンスの部屋でした エバンスは家の扉を一日中開け放ち、仲間たちが好きな時に立ち寄れるようにしました ジャズ界注目のプレイヤー、ジェリーマリガン、リーコニッツ、 そしてジョンルイスもジャムセッションの常連でした 若きトランペッター、マイルスデイビスの姿もありました 彼はまだ23歳、しかしその内側には次の四半世紀にわたって ジャズの限界を押し広げていく、原動力が秘められていたのです マイルスは 1926年アメリカ中部、イリノイ州のイーストセントルイスで生まれました 父親は名のある歯科医でした マイルスは大方のジャズミュージシャンが、およそ経験したことのない豊かな環境で育ちました 白人地域にある洒落た家、コックと使用人、乗馬のできる広い農場、 小柄で器量よしの彼をクラスメイトはかわい子ちゃんと囃し立てました 彼はそう呼ばれるために顔を赤らめる内気な子供でしたが、 いつしか自分を強く見せようと人前では常にタフさを装うようになりました 13歳でトランペットを始め18歳の年、 バード事、チャーリーパーカーと、ディジーガレスピーがセントルイスを訪れた際に、 彼は偶然二人と演奏できるチャンスをつかみました パーカーの演奏に心を奪われたマイルスは、すぐにもニューヨークへ行って彼らの音楽に加わりたいと考えました 彼はその夢を叶え、彼のアイドルバードと定期的に演奏するまでに成長します

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 マイルスが初めてパーカーと仕事をしたのは19歳の時でした バードと一緒に吹くという、トランペッターとして最高の栄誉を手に入れ、それを見事にこなしたんです 耳の肥えた人にはすぐにマイルスの音には、他のプレイヤーにない優れた抒情性があると気付きました 勿論テクニックはディジーガレスピーのようなプレイヤーとは比較になりませんでしたが、 そのかわり彼は音色や、メロディーをより大事にしました 少ない音を常に的確に選び、得も言われぬムードで演奏したんです

【ナレーション】 1949年23歳のマイルスは、ニューヨークのギルエバンスのアパートに出入りするようになり、 自分の音楽スタイルを磨きながら、さらなる飛躍の場を求めていました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 マイルスの人間性は音に表れています 彼は一見タフで刃物のように鋭い男です そのサウンドは決して弱弱しく、涙もろいものではありません なのにその音は驚くほど繊細でした そこはかとない情感に満ち、夢の中をさまような響きです とても優しい人間らしい音です タイプとしてはレスターヤングの音に近い、 マイルスはいわば裸の傷つきやすい自分を、勇気をもって人前にさらしました だからこそ彼のサウンドは逆らい難い人間的な魅力を帯びたんです

【ナレーション】 マイルスはギルエバンスとともに、9人のメンバーからなる新しいバンドを結成しました 彼らが人前で演奏したのはたった2回、 しかしそれをきっかけにメジャーレーベルの招きを受け、いくつかの曲をレコーディングしました そうして完成したのがアルバム、クールの誕生です マイルスは後にこう語って言います バードとディジーは確かに偉大だが、強いて言えば彼らの音には甘さがなかった 自分達はもう少しソフトな路線でジャズの王道を行ったんだ

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 クールの誕生には新しい響きがありました その音楽スタイルはソフトでありながら激しい、 甘さの中にうねる様な高まりがあり、その激しさが持続されます それはある種の恍惚、エクスタシーをもたらしますが、その状態を維持することは並大抵ではありません

【ナレーション】 1949年マイルスデイビスはパリに行き、新しい世界を垣間見ます その旅は自分の物の見方を永遠に変えることになった と、彼は後に振り返っています パブロピカソと出会い、ジャンポールサルトルとカフェで語り合い、 歌手のジュリエットグレコとは、つかの間の激しいロマンスを経験しました ヨーロッパで味わった一人の人間としての自由、解放感 それらはマイルスの人間性を一回り大きくしました しかしそこで得た豊かな感情は長続きしませんでした

【伝記作家:クインシー・トループ】 マイルスの心の悪魔は1949年、フランスから帰った直後に顔を出し始めたおうです 自由を謳歌した後で元の自分に戻れなくなったのでしょう

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】 彼にとりついた悪魔の正体は誰にも分かりません ただ彼は小さい頃から非常に恵まれた環境で育ち、いわば周りから特別扱いされることに慣れていました 彼は薄々そうした特権の脆さにも気づいていました それは一歩世間に出れば、たちまち奪われる、ぬくぬくとした環境なのだと 彼には普通の黒人じゃないという特権的な意識があり、同時に世間の黒人差別への強い反発がありました そうした葛藤が毒のある、破滅的な道を選ばせたんじゃないでしょうか また彼には常に、自分自身を強く見せたいという欲求がありました ストリートに生きるタフで、ドラマチックな黒人としての装いが必要だったんです 彼はそれを自分を傷つけることによって、成し遂げようとしたのかもしれません

【ナレーション】 ニューヨークへ戻ったマイルスは突然深い心の闇に転げ落ちて行きます 彼は自分の誇りを満たす仕事を見つけることができませんでした 行き着く先はドラッグでした 最初はヘロインを鼻から吸い、やがて直接静脈に注射するようになります 彼はドラッグを買うために友人たちのものを盗んだり、 大切なトランペットさえ、質にいれたりするようになりました ロサンゼルス滞在中、マイルスはドラッグを所持していた容疑をかけられます その場は罪を逃れましたが、しかし彼にドラッグをやめさせようと必死の父親が、自ら愛する息子を逮捕させました マイルスは父を罵り、さらにドラッグにふけります ほどなくミュージシャンの間で奴は信用できない バードと同じだ、そんな評判が立ち始めました マイルスは当時の想いをこう語っています 人々は哀れみと恐怖の目で俺を見た、まるで汚いものを見るような目だった 1952年チャーリーパーカーとディジーガレスピーは、テレビという新しいメディアに並んで登場しました 彼らはそこでジャズ専門誌が選んだ、ベストプレイヤーという栄えある賞を授与されました 生放送による演奏の間、パーカーはその冷ややかな表情をちらりとも変えませんでした 瞳の奥の鋭い眼差し、そして絶えず動く指だけが彼の音楽への情熱を物語っていました ビバップの影響は今やいたる所に及んでいました それはパーカーやガレスピーでさえ想像しなかったほどジャズを変えたのです バドパウエルはビバップの複雑な演奏法をキーボードの世界に取り込みました 彼の高度なテクニックと独創的な演奏は、バードを超えディジーを超えたとさえ言われました ビバップを歌うことは不可能だと言われていました しかしエラフィッツジェラルドは、そうした先入観を見事にひっくり返します 彼女はビバップの歌唱法を完全に自分のものとし、 それまでのシンガーが歌によって語れなかったものを語ったのです ピアニストのジョンルイスもまた、チャーリーパーカーを尊敬していましたが ジャズミュージシャンのドラッグ漬けの生活や、自堕落さにはうんざりしていました 1952年ルイスは思いを同じくするビバップの仲間たちと集い、モダンジャズカルテットを結成します 入念なリハーサル、タキシードの着用、ステージでは観客との戯言は一切なし 彼らは騒々しいナイトクラブよりも上品なコンサートホールを好みました ジャズミュージシャンはドラッグ常習者ばかりではないことを証明したい ビブラフォン奏者のミルトジャクソンはそう語りました ジョンルイスはデュークエリントンを尊敬し、プレイヤーは常に品位ある演奏を心がけるべきだと主張しました 彼もまた黒人としての誇りを抱き、音楽を通して黒人の地位を向上させようとしたのです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】17:53 セロニアスモンクは、私の特別お気に入りのミュージシャンです 知恵に富んだ長老のような風格があるかと思えば、幼児のような天真爛漫さも持ち合わせています 彼の音楽の背景にある構成や理論は、まるで数学者が組み立てたかのように緻密です モンクの奏でるソロには一点の隙もありません いわば論理の傑作なんです、彼は周りにはお構いなし おかしな帽子をかぶり、常に陽気でその楽しさは、独特のシンコペーションリズムの揺れにもあらわれていました

【俳優:オシーデイビス】 モンクはいつも変な帽子をかぶり、演奏中何をしだすかわからない不思議な人でした 彼は魔法使いのようでした、私にはステージの彼が鍵盤の間から奇妙なものを取り出し、 どうだい、いいだろう?と笑っているように見えたものです 彼は何よりも自分自身を楽しみ、それを聴衆と分かち合おうとしました

【ナレーション】 セロニアスモンクは周囲の評判や、流行には左右されずに、独自のジャズを展開したミステリアスなピアニストでした 彼は1917年にノースカロライナで生まれ、ニューヨークのウエストサイドで育ちました 10代の頃から宣教師と共に各地を回り、ゴスペルにどっぷりと浸かりました 1941年頃ビバップ草創期のミントンズプレイハウスで、モンクは中心的なピアニストになっていました

【シンガー:カサンドラ・ウィルソン】 セロニアスモンクはいわば、ピアノの鍵盤と鍵盤の隙間にある音までも拾い上げました 彼は音階を基本とした、西洋音楽の限界をやすやすと越えてみせたんです 彼の演奏から私は音階の内側には、無限に細かい音程があり、それは表現可能であることを学びました

【ナレーション】 大柄な彼はひろげた指を、鍵盤に打ち付ける独特のスタイルで演奏しました

【クラブ経営者:ロレイン・ゴードン】 彼は五本の指を絶対に曲げないんです 普通ピアニストっていうのは指を美しく曲げて弾くものでしょう モンクは指をまっすぐに伸ばして、しかも鍵盤を叩く前に次の音を考えるような間を起きました ご存じのように彼は流れるようなメロディーは引きません その代わりさぁ叩くぞ、と言わんばかりに構えるんです 一体どこを叩くのかしらってハラハラしたもんですが、 でも彼はいつだってこれぞという正しい音をたたきました

【ナレーション】 聴衆は初めのうちモンクの風変わりな人柄にばかり気を引かれていました 彼は独特な服装をし、幾日も誰とも話さないことがよくありました 肘で鍵盤をたたいたり、演奏の途中急に立ち上がってダンスを始めることさえありました モンクのサウンドには、かつてハーレムで流行したストライド奏法や、 さらにはデュークエリントンから受け継いだ味わいのある響きが息づいていました しかし当時の評論家たちは彼のパフォーマンスに目をくらまされ、 その斬新な音をどう評価してよいかわからなかったのです

【評論家:ナット・ヘントフ】 評論家は時に甚だしく鈍感です、斬新なものを聴きたいと言う割には、 いざ新しいものに出会うと、それをどう位置付けていいかわからなくて戸惑うんです モンクは長い間ダウンビート誌やその他のジャズ専門誌で酷評され続けていました

【プロモーター:ジョージ・ウィン】 モンクはエリントンと並ぶジャズ作曲家の最高峰です もしモンクが別のパーソナリティを持ち、器用に振る舞っていたら、 つまりデュークエリントンのように、楽団をとりまとめる能力を持っていたとしたら、 彼の才能はもっとはやく世に認められていたでしょう より多くの人に受け入れられたはずです

【ナレーション】 彼はめったに他人の曲を演奏せず、自分がやりたい音楽は自分で作ることに決めていると語っていました 彼のナンバー、52丁目のテーマ・ストレート・ノーチェイサー・、ラウンドミッドナイトなどは 長い年月をかけて今ではジャズのスタンダードになっています 1951年モンクと友人の乗る車からドラッグが発見され、 無実であったにもかかわらず、彼はニューヨークのクラブから締め出されます およそ六年間モンクはニューヨークのジャズシーンから姿を消します 狭いアパートに閉じこもり、鍵盤に身を屈めて作曲活動に専念したのです そして1957年アルバム、ブリリアントコーナーズが発売された時、 世間はそのほとばしる才能にようやく気づきました

【評論家:ナット・ヘントフ】 彼のライブを聴こうとミュージシャン達まで押しかけました 私はルイアームストロングがシカゴで演奏していた頃の熱狂は体験していませんが、 おそらくそれに匹敵していたでしょう 開演前の興奮は忘れられません、何が起こるか予測がつかない しかしそれは間違いなく生涯記憶に残るだろうと予感しました

【ナレーション】 モンク自身は何も変わっていませんでした 急に沈黙したり、ステージで踊りだしたり、自らの感性の赴くままに演奏し続けていました 変わったのは明らかに世間の評価のほうでした 彼はもはや誰にもかまうことはありませんでした 15年間世間に認められないまま自分の姿勢を変えなかったセロニアスモンクは、 ついに正しい評価を勝ち取りジャズの巨人と称えられたのです

【ナレーション】 戦後人口の急増するウェストコーストで、 デイブブルーベック率いるカルテットは、新世代のジャズを切り開きつつありました ブルーベックは戦地から戻った後、フランス人の作曲家、ダリウスミヨーの下で音楽を学びました

【ピアニスト:デイブ・ブルーベック】 ダリウスミヨーはこう言いました 世界中いろいろな文化の音楽に耳を傾けなさい そこで感じた新鮮なものを全てジャズの表現に持ち込むのだ 私はトルコのある街で、今までおよそ聞いたことのないリズムに接しました そのリズムを口で言うと タラタラタラタララ 土地の演奏かはこんな感じです ガーンガーンガーンガガガン 彼らは二拍子と三拍子を合わせた、八分の九拍子というリズムで即興演奏していたんです まるでアメリカ人がブルースを弾くみたいにごく自然にね 私はこれこそ学ばなければと思ったんです

【ナレーション】 ブルーベックは1951年、水泳中の事故で首を痛め、ピアニストとしての危機に瀕しました しかし彼は諦めず、メロディーを奏でるかわりに和音を連打する、 いわゆるブロックコードの手法を使い始めます それはカルテットのアルトサックス、ポールデスモンドの演奏と合わさって完璧なものとなったのです 彼らは新しい演奏スタイルを獲得しました 軽やかで叙情的、デスモンドの言葉を借りれば、それはドライマティーニのような音でした

【評論家:ナット・ヘントフ】 ポールのアルトサックスには実に美しい 歌いかけるような響きがありました 彼は確かオードリーヘップバーンの大ファンでした だからというわけではないが彼の奏でる音には、ヘップバーンがスクリーンに現れた時のような花のある軽やかさ、 そして心に染み渡る、抒情性を感じたものです

【ナレーション】 デスモンドとブルーベック、絶妙な音の組み合わせがジャズの世界にまた一つ、 忘れがたい名曲を生み出すことになるのです

【ピアニスト:デイブ・ブルーベック】 私はタイムアウトというアルバムを作り始めていました そこで今までのジャズにはなかったジャズに挑戦するつもりでした さっきの八分の九拍子もそう このワントゥーワントゥーワントゥーワントゥースリー、 ワントゥーワントゥーワントゥーワントゥースリー またポールに五拍子で何かやらないかと持ち掛けました

【ナレーション】 デスモンドはいくつかのフレーズを考えてブルーベックに示します

【ピアニスト:デイブ・ブルーベック】 ポールが最初に吹いたのは、曲の途中をつなぐこんなメロディーでした その後でこの美しいテーマを演奏しました 私はこのテーマを繰り返してから 最初のフレーズにつなげようと言いました あの五拍子はこうしてできたんです

【ナレーション】 タイムアウトはアルバムとして、ジャズ史上初めて100万枚以上を売上ました デイヴブルーベックのカルテットは肌の色や、文化の垣根をも超えてみせたのです 1954年3月、チャーリーパーカーはハリウッドのクラブで演奏していました 一時的にドラッグからは離れていたものの、大量に飲むアルコールのせいで、 身も心も荒み、体は膨れ上がり、身なりも乱れていました そこへニューヨークの妻から電報が届きます 2歳になる娘プリーが肺炎で亡くなったのです

【パーカーの妻:チャン・パーカー】 娘のプリーは生まれたときから、いつも病気がちで随分医者を訪ね歩きました でもなかなか原因はわかりませんでした そして心臓専門とする小児科医を尋ねたところ、あの子の心臓に穴が開いている事がわかったんです すぐに手術を受ける手配をしましたが、その直前のことでした

【ナレーション】 知らせを受けた晩、パーカーはロサンゼルスから妻のもとに4通もの電報を送りました 一通毎にその内容は支離滅裂さを増していきました

【電報1】 愛する君へ、予期せぬ娘の死に僕は君以上に動揺している 僕が戻るまでどうか葬式はどうか済ませないでくれ せめて僕は最初にチャペルのドアをくぐりたい 病院にいる君のそばにいられないことをどうか許してほしい 君の夫チャーリーパーカーより

【電報2】 愛する君へ、どうかお願いだ、気をしっかりもってくれ チャールズパーカー

【電報3】 チャン、助けてくれ チャーリーパーカー

【電報4】 娘は死んだ そのことならわかっている できるだけ早く帰る 僕の名前はバード、ここはすごくいいところだ みんな僕にとても良くしてくれる すぐに行くから安心していてくれ 君の下に真っ先に駆け付ける 僕は君の夫だ 心をこめて、チャーリーパーカー

【パーカーの妻:チャン・パーカー】 夫からの電報を読むのが怖くてたまりませんでした 私はひどく動揺していて鎮静剤を打たれていました 娘が病院で着ていた、おくる身を離すことができませんでした そこへ1時間ごとに電報が来て、夫の只ならない状態が伝わってくる それは耐え難いことでした でもバードのせいじゃない、彼は苦しんでいたんです

【ナレーション】 娘の葬儀の後パーカーは、もはや自分自身を持ちこたえることが出来なくなっていました 彼は酒に溺れ仕事先のバンドのメンバーと揉め事を起こします マネージャーは怒って彼をクビにしました 彼は妻の待つ家に帰りますが、そこでも彼女と喧嘩をし、薬を飲んで自殺を図ります 救急車が呼ばれ何とか一命をとりとめました 酒の量はさらに増えました 彼は酔ったまま夜通し地下鉄に乗り続けました 恐怖におびえ、ファンに対してでさえ懐疑的になります どうせみんな有名な薬中を見たいだけさ 彼は吐き捨てるように言いました ある晩パーカーはニューヨークのクラブで、昔の相棒ディジーガレスピーの姿を見つけます パーカーはヨレヨレの服を着、体は異常に太り混乱していました なぜ俺を救ってくれないディジー、彼は何度もそう言ってからみました どうしていいかわからず、かける言葉さえ見つからなかった ガレスピーは当時をそう回想しています パーカーはよろめきながら店のドアを出て行きました

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 彼はなんとか立ち直ろうともがいていたに違いありません でも彼は苦しみから酒に溺れてしまった ある時バードが急にこれを借りるよと言って私のサックスを持って行ってしまったことがありました 私もかなり酔っ払っていたんですが、それは人から借りた最初のサックスでした 2、3日後に会った時彼はそのサックスを持っていませんでした 質に入れてしまったんです、私は内心腹を立てました しばらくしてある晩、バードが私の演奏を見に立ち寄りました 今でも覚えています、仕事の後彼は家まで送るよと言ってくれたんですが、 私はタクシーで帰るとそっけなく別れました サックスの事をまだ根に持っていたんです

【ナレーション】 1955年3月9日、その日パーカーは仕事でボストンに行くことになっていました 駅に向かう途中、彼はイーストサイドのスタンホープホテルに立ち寄り、 彼の友人でありジャズのパトロンである、ケーニグスウォーター夫人を訪ねました パーカーのあまりの顔色の悪さに婦人は驚きました

【パーカーの妻:チャン・パーカー】 彼女が呼んでくれた医師はすぐ入院をと言いました でもバードはがんとして聞き入れませんでした 多分彼はもう生きることを諦めてしまっていたんです 彼にとって人生はあまりにも重くなりすぎました

【ナレーション】 パーカーはしばらくそこで休養することにしました 三日後の3月12日、パーカーはテレビをつけて、 ドーシーブラザーズのバラエティショーにチャンネルを合わせました 彼はジミードーシーのサックスの音がお気に入りでした 最初の出し物、曲芸を見ながらパーカーは楽しそうに笑いました その笑い声が止まり、彼は息を詰まらせてその場に崩れます 医師がかけつけた時にはもう手遅れでした 公表された死因は肺炎で肝硬変を併発していました 自らの命をすり減らし力尽きたチャーリーパーカー 検視官は彼の年齢を55歳から60歳と推定しました 実際には34歳でした

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 その日私はニューヨークポストを買ってバスに乗り込み、数ブロックほど過ぎてから紙面を広げました 突然バードがなくなった見出しが目に飛び込んできました 知り合いの家で倒れそのまま息を引き取ったと 私は打ちのめされ落ち込みました 取り返しのつかない瞬間でした つい2、3日前私は彼の優しい言葉を袖にして帰ってしまいました サックスの件で腹を立て、バードと過ごす最後のチャンスを自分から逃してしまったんです そう思うとたまりませんでした バードを失って、誰もが打ちひしがれました 私は葬儀には行きませんでした 彼をこの世から見送るなんて辛すぎました

【ナレーション】 パーカーは故郷のカンザスシティに葬られました 母親は葬儀の間ジャズを演奏しないでくれと頼みました 熱烈なファンたちはマンハッタンのグリニッジビレッジの壁にこう書き連ねました バードは生きている

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 チャーリーパーカーの音楽には彼の本質、研ぎ澄まされた崇高な人間性が宿っています 彼は一切の妥協を拒み、身も心も限界までかりたてて、ひたすら音楽に向き合いました その姿勢が私たちの心をうつんです

【ナレーション】 ミドル級チャンピオン、シュガーレイロビンソン その強さ、相手を倒す時の優雅さは、ボクサーの中でも格別と言われていました 戦う姿は堕落と破滅の淵にいた、一人の天才トランペッターに再起の力を与えます ドラッグに溺れたマイルスデイビスはロビンソンを見てこう語りました 彼はリングでは決して笑わない自分のやるべき事だけに集中している ロビンソンの真剣な生き方に影響を受け、マイルスもまた自らのリングに立ち上がろうと決意します 1954年ドラッグをたつ決心をしたマイルスは、 いかにも彼らしく自分の力だけでやり遂げる道を選びました 彼はハリウッドから長距離バスに乗り込み、故郷イリノイ州の父親の農場に向かいました 父親はきっぱりとこう言いました 私は愛情を持って見守る以外何もできない これはお前自身の仕事だ マイルスは小さな家の一室に入りドアへカギを掛けました 猛烈な薬への欲求、襲いかかる禁断症状、身体は震え、節々の痛みに今にも叫び出しそうになりました 七日間彼は何も口にしませんでした 彼はこう回想しています ある日それはぱったりと終わった 外に出て澄み切った甘い空気を吸い、父親の家へと向かった 父は満面の笑みを浮かべて立っていた 二人はただ抱き合って、声を上げて泣いた マイルスは心に誓います 自分には音楽しかない 失った時間はいつの日か埋め合わせる