JAZZの歴史|第8回

JAZZ|第08回|自由と抵抗のシンボル

YouTubeよりテキスト引用 https://youtu.be/z0HOtAinlKM

【ナレーション】 1940年代の初め、世界はいまだ終わりの見えない戦争に覆われていました 戦いに疲れた人々の心に、スイングミュージックは自由の響きとして染み渡りました この時代の大半の人々にとって、ジャズと言えばスイングでした しかしニューヨークのハーレムでは、スイングに飽き足らないジャズミュージシャンたちが、 新しい音楽表現を絶えず模索していました その頃アメリカでは、レコードの製作がストップしていたため、 そうしたミュージシャン達の実験は、目立たない場所で行われていました その中でもリーダー格は、チャーリーパーカーとディジーガレスピーでした 新しいリズムパターン、斬新なハーモニー、自由奔放なソロ、エンターテイナーから真のアーティストへ 彼らが自由に羽ばたくには今少しの時間が必要でした 1941年の末までにナチスドイツはヨーロッパ大陸の大半を侵略、 チェコスロバキア、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、そしてフランスを次々と占領支配下に置きます ドイツ軍の激しい空襲はイギリスをも脅かしました こうしてナチスはヨーロッパを力でねじ伏せたかに見えました しかしドイツ宣伝相ゲッペルスが、下等な音楽と呼んだジャズは、封じ込められることはなかったのです ジャズはヨーロッパで自由と成功のシンボルとして流通しました ドイツ国内でさえジャズは人々を魅了しました スイングキッズと呼ばれた若者たちは、ゲシュタポを無視してひそかに集まり、 連合国軍のラジオ放送から流れる音楽に聞き入りました 1942年ゲッベルスは戦略を変更し、ラジオ局専属のスイングバンドを結成させます そしてアメリカで人気の局に、反ユダヤ的な歌詞をのせ、世界に向けて放送させたのです ナチスは自分たちの忌まわしい犯罪から世界の人々の目をそらす為、 多くの偽りの宣伝映画を制作しました これはチェコのテレジン強制収容所で撮影されたものです 撮影のために人々は新しい衣服を支給されていました フィルムにはゲットーシンガーズという名の、収容者によるジャズバンドも写っていました 収容所内での演奏会、人々はどのような思いでスイングのしらべを聴いていたのでしょうか 撮影の終了後ミュージシャンたちは、何十万人もの罪のない人々と一緒に、 市の収容所アウシュヴィッツに送られたのです アメリカがファシズムとの戦いに国を挙げて立ち向かった時代、 アフリカ系アメリカ人黒人達もまた、愛国心から立ち上がりました 民主主義は肌の色を問わない国民共通の価値でした 100万人の黒人達が、民主主義の旗印のもとで軍隊へと動員されていきます しかし海の向こうに共通の敵が存在するからといって、 黒人に対する厳しい人種差別が急になくなるはずもありません この時代の黒人たちは人種差別という古い敵と、ファシズムという新しい敵にいわば二重に包囲されていたのです 1943年4月 ハーレム「1」愛されたダンスホール、サボイが封鎖され営業停止処分を受けました 兵士がここで出会った黒人女性から性病をうつされたと、ニューヨーク当局が告発したからです しかし実を言えばそれは黒人と白人がホールで一緒に踊ったことには関係ありません 全て二人が店を出た後に起きたことなのです ハーレムの住人は強く反発、公民権運動家はヒトラーのような人間が ニューヨークで人種差別を推し進めている、と訴えました その夏連合国軍がドイツの都市に猛爆撃を仕掛けていたころ、 ニューヨークのハーレムで激しい人種暴動が起きます サボイの営業停止は、ニューヨークでの人種対立に火をつけるきっかけとなったのです 死者6名、負傷者700名、打ち壊された商店は1500件近くにのぼりました そのほとんどが白人所有の店でした ハーレムの通りは1930年代の大不況に続いて、2度目の経済的打撃を受けました 暴動以降白人達はもっぱらハーレムを危険極まりない場所と恐れ、 それまでのジャズファンたちでさえ、訪れるのを躊躇うようになりました ジャズミュージシャン達もまた、殺伐としたハーレムから別の場所へと拠点を移していきます 新しいジャズの中心地はウエストサイド52丁目の5番街と6番街の間、 ミュージシャン達はそこを単にストリートと呼びました 小さな一区画に7つものクラブが立ち並び、あらゆる種類のジャズが聴ける場所となりました 伝統的なニューオーリンズジャズやスイング、そして最新のサウンド、 そこはチャーリーパーカーやディジーガレスピーといった、気鋭のミュージシャンたちの実験場でもあったのです ストリートは休暇中の兵士達のかっこうのプレイスポットとなりました しかしここでも人種間のいざこざが絶えず、またアルコールが絡んで派手な喧嘩が起きがちでした 洒落た格好の黒人ミュージシャンは、南部から来た白人兵士たちに睨まれやすく、 ディジーガレスピーも通りで襲われたことがありました アルコールや暴力の問題をはらみながら、ストリートはジャズの中心地となっていきました 当時この一角の押しも押されもせぬ女王はビリーホリデイ、 ホリデイはストリートを愛し自ら故郷のような場所とさえ言っていました

【ドラマー:スタン・リービー】 誰もがビリーを敬い愛していました 彼女の足音が聞こえただけで大騒ぎのクラブが一瞬「シーン」となったものです 彼女の存在感、その姿から発するオーラは圧倒的でした

【ナレーション】 ビリーのトレードマークは白いコスチューム、彼女はこう語っています ストリートでは毎晩みんなが白いくちなしと、白い粉を私に持ってきてくれた その頃彼女は恋人の勧めでヘロインにはまっていたのです 母親が突然なくなると、彼女は誰からも見捨てられたように感じ、一人になるのを極度に恐れました 孤独は彼女の音楽にも現れました

【ピアニスト:ジミー・ロウルズ】 彼女の歌はいつもひどく寂しげです 特にそう、ソリチュードにはどうしようもない切々とした孤独感が漂っています それは孤独が常に彼女の人生の一部だったからです、 彼女は辛い少女時代を過ごし、売春やレイプまで経験しました そして自分の事をまともに扱ってくれない、ろくでもない男に翻弄されてきたんです 歌は傷だらけの彼女の心の叫び、苦しみのはけ口だったんでしょう

【ナレーション】 第二次世界大戦中、徴兵されることのなかったデュークエリントンは、 選りすぐりのミュージシャンを率いてたえずツアーに出かけていました エリントンはどこでも曲を書きました 列車やバス、ハイウェイを飛ばす車の中は勿論、 レストランやナイトクラブではナプキンにメロディを書き留めました アイデアはお風呂の中で浮かぶことさえありました エリントンのアイデアはまさに無尽蔵でした 彼はよく一瞬のひらめきで一つの曲を書き上げました ソリチュードは、レコーディングスタジオに入るのを待つ20分間に壁に寄りかかって書いた曲です 黒と茶の幻想はタクシーの中で、そしてムードインディゴは母親が夕食の支度をするのを待つ間に作曲しました およそ半世紀をツアーに費やしたエリントンは、大勢のミュージシャンと交流しました しかし心の奥まで知る友人はあまりいなかったと言われます 友人の一人はこう言いました 彼は難解なジグソーパズルのようで、一度に埋められるのは2、3ピースだけだった

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 デュークエリントンの内面を深く知る人はいないでしょう 彼はプライバシーを人に明かしたがらなかったからです しかし仲間への包容力や、理解力のとてもある人でした 彼はいつも何かに耳を傾け、また観察していました 彼は相手をよく見ていました、その人の歩き方、話し方、着ているもの、 その人自身気付かない小さな癖も見抜きました エリントンは女性にモテました しょっちゅう火遊びをしていたと言っても良い、しかしそれは手当たり次第ではなく、 狙った人だけをものにするゲームでした エリントンの武器はその洞察力、例えば彼は初対面の人が歌手であると分かる すると女性はどうしてわかるの? と気を引かれるんです

【ナレーション】 エリントンの洞察力は音楽をまとめ上げていく上でも、大きな武器となりました 演出家が芝居のキャスティングをするように、 彼は常にそれぞれのパートを相応しいミュージシャンに割り振っていました 18人の音楽マニア、これはエリントンが自らの楽団メンバーにつけた呼び名です 一人ひとり豊かな個性を持つ際立ったプレイヤー達、 その持ち味や能力を、彼は最大限に引き出したのです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 彼の楽団ではどのプレイヤーも、ソロで自分の物語を奏でることのできるハイレベルな奏者でした エリントンがこのソロはババーマエディンに受け持たせよう、 と言えばそれは必ず彼の個性を考えた上でのことでした 同様にクーティーウイリアムスの為のトランペット協奏曲というのもありました 他のトランペットでは駄目なんです それほどまでにエリントンは、ミュージシャンの能力と個性を大切にし、 作曲やアレンジの際の重要な要素としていました

【ナレーション】 いったんステージを離れるとエリントン楽団には一癖ある人物が少なくありませんでした メンバーが決まった時間に揃わないのは当たり前、 大酒飲み、仲間の持ち物をくすねるもの、刑務所の厄介になるもの、楽団内では何年も互いに口をきかない者もいました エリントンと話をしない者さえいたほどです しかしエリントン自身はあまりそうしたことを気にしませんでした 確かな演奏の腕さえあれば他にどんな欠点があろうと構わなかったのです エリントン楽団の並み居るスタープレイヤーの中で、 テナーサックスのベンウェブスターほど、迫力ある演奏をする者も、また数多くの問題を起こす者もいませんでした 少し酒が入っただけで、まるで手が付けられなくなるため、彼のあだ名は野獣でした

【ベーシスト:ミルト・ヒントン】 彼の家へ行った時の事です 母親は教師でベンは家ではお行儀が良かったんですが、 近所の酒場でビールを飲んだ途端、たちまち四人の男を殴り倒していました

【ナレーション】 この上なく酒癖が悪い男ながら、ウェブスターのはち切れんばかりの躍動的なソロには、誰もが一目置いていました エリントンはウェブスターの堂々たるソロをたっぷり聞かせるために、 アップテンポの曲、コットンテールを書きました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 コットンテールはジャムセッションの名曲です 心地よいスイング感があり、1940年代初期エリントンの代表曲の一つです コットンテールを初めて聞いた人は、そのエネルギッシュで刺激的な音に体が自然と弾みだすでしょう 心を開放的にさせる音楽とはこういうのをさします、ダンスにはもってこいです しかしその頃ビッグバンドの音楽は大衆受けを狙うあまり、自由な創造性を失いつつありました 所謂3分間録音という型にとらわれていたんです エリントンはそうした古い型を打ち破ろうとしました 彼は誰一人手掛けたことのないジャズの大作に挑んだんです

【ナレーション】 1943年1月、ソビエト軍がスターリングラードで、ドイツ軍と激しい攻防を繰り広げていた頃、 デュークエリントンはカーネギーホールで、演奏時間44分という野心作を発表しました そのコンサートの収益は、戦いに巻き込まれたソビエトの人々に寄付されることになっていました 三つの楽章からなる曲は、それまでのスイングミュージックから一歩踏み出し、 ジャズの新たな境地を切り開くものでした エリントンはその曲を、ブラックブラウン&ベージュと名付けました それはアメリカの黒人の歴史を音で辿るものでした

【元エリントン楽団/トロンボーンプレーヤー:ジョン・サンダーズ】 その曲はアメリカの黒人たちが置かれた状況や、彼らの心情を的確にうつし出していました デュークはプランテーションや、農地で働く奴隷達の気分を音で描きました それが曲の最初ワークソングと呼ばれる部分です 南部の農場の空気が伝わってきます、彼らの気持ちも 次に宗教的な静かな音色が響き渡ります カムサンデーと呼ばれる第2楽章には日曜日、 過酷な労働から束の間解放され、スッとする人々の気持ちが表現されています 奴隷たちは教会に集いました 日曜日はささやかな憩いを取り、神に祈りをささげる日でした 彼らは奴隷からの解放、自由を願って祈ったのです 冒頭でトロンボーンとバイオリンが主題を奏で、次にアルトサックスがメロディを引き継ぎます 黒人たちの内に秘めた情熱や、信仰の厚さを表すかのように 黒人たちは南部を後にして、北の大都市を目指しました シカゴ、フィラディルフィア、ワシントン、ニューヨーク、そして彼らの新しい歴史が始まったのです

【エリントン楽団/シンガー:ジョヤ・シェリル】 エリントンは自由のために戦いました あの頃の黒人に対する差別や、様々な制約は本当に耐えがたいものでした 彼は音楽の中でこう叫んでいたんです 我々に真の自由を

【ナレーション】 その晩ホールには、ルーズベルト大統領夫人の姿もありました 新作のスケールの大きさに聴衆は圧倒されました そしてコンサートの収益、数千ドルがソビエト兵救済に充てられたのです

【元エリントン楽団/トロンボーンプレーヤー:ジョン・サンダーズ】 デュークエリントンに接した演奏者は自分が今、類まれな人のそばにいるのだと気づきます ここに偉大な作曲家がいる その音楽があまりにも気高く豊かなので、私たちはそれを演奏できることを、ある主の特権のように感じたものです エリントンの膨大な作品を紐解いていくとき、演奏者はそこに見出すのです 単なる作曲家でも、バンドリーダーでも、ピアニストでもない、 エリントンという人の奥行きがどこまでも広がっているのを

【ナレーション】 ルイジョーダンはビッグバンドがその全盛期を終えるころ それまでとは違う形で、大衆のためのジャズを一歩進めたミュージシャンです 彼は普通の人たちのためのジャズをやりたいと言い、それを実行しました スイングの中でも最もシンプルで、ポップな部分をいかした、思わず口ずさみたくなるようなメロディ そのサウンドはロックンロールへと続いていくものです この新しい音楽はリズムアンドブルースと呼ばれ、かつてジャズの信奉者だった多くの黒人を引きつけていきます

【映画監督:ベルトラン・タベルニエ】 第二次大戦中ジャズは、ジャンポールサルトルなど、 ヨーロッパの思想家や、レジスタンス運動家をひきつけました それは抑圧的な体制に抵抗するものを、励まし元気にさせる音楽でした ナチスやその傀儡政権への犯行の魂をあらわしていたんです ジャズがレジスタンス運動のシンボルとなったのは、 単に連合国アメリカの音楽だからではなく、黒人の歴史にルーツを根差していたからです 人種差別主義との戦いを、黒人ほど長く経験してきたものはいないからです

【ナレーション】 1943年、連合国軍はシチリアと南イタリアを解放、ヨーロッパ各地でファシズム政権への巻き返しが始まりました その頃ナチスはヨーロッパの占領地域すべてで、ジャズという言葉さえ禁止していました しかしパリのミュージシャン達は、ナチスの禁止令などに屈しませんでした 彼らは曲のタイトルを英語からフランス語に変えただけで、素知らぬ顔でスイングし続けたのです 占領下のパリは1920年代以来、再びのジャズブームを迎えました フランスのジャズファンたちは、 キャブキャロウェイが歌うスキャットにちなんで、自分たちのことを「ザズー」と呼びました そしてパリの空気に触れたジャズは独特の豊かな音色を生み出しました ジャンゴラインハルトは、フランスのジャズファンを熱狂させたギタリストの巨匠です ラインハルトはベルギーにある、ロマの人々の居住区でうまれ、 二十歳になるまでジャズを聴いたことがありませんでした ジャズとの出会いは1930年、はじめてルイアームストロングのレコードを耳にした時でした その瞬間彼は独学で、ジャズギタリストとしての道を歩むことを決意したのです まもなくラインハルトは、バイオリニストのステファングラッペリと組み、 自分たちのバンド、フランスホットクラブ50奏団を結成しました ラインハルトたちは戦時下のパリで人気を博します 自由を切望する街で、そのジャズの響きは人々の心を満たしました ラインハルトは左手に火傷の後遺症をおっていましたが、 彼のパワーと想像力は、誰にも真似できない演奏を生み出しました ある時彼は有名なクラシックギタリストから、今演奏した曲の楽譜はどこにあるかと尋ねられました 彼は笑って答えました ありません、今作ったばかりなんです

【映画監督:ベルトラン・タベルニエ】 ジャズは様々な音色を融合させることのできる、自由で開放的な音楽です ジャンゴはロマの出身だったので、彼らの伝統的な音楽とジャズを組み合わせました 実はそれらはとても相性がよかったんです ギターとバイオリンの音を組み合わせるというのは、 当時としては非常に斬新なアイデアでした そしてその結果は素晴らしいものでした こう言ってよければ、彼はあのチャーリーパーカーに似ています 彼には一つのミスもなかった、たとえ即興であっても極めて計算されつくした演奏だったんです

【ピアニスト:デイブ・ブルーベック】 あの時代のスイングに、自由を愛する者の音楽という意味がありました スイングバンドは自由という価値を高らかにうたっていました ジャズのソロ演奏ほど、ミュージック一人ひとりの個性に任された表現の場はありません トランペット、トロンボーン、サックス、ピアノ、それぞれの自由の表現です ミュージシャンは楽譜の約束事から離れ完全に解き放たれました 即興や閃きを楽しむのです それこそがジャズ本来の魅力であり、また自由を愛する国、アメリカらしい部分だと思います 世界中でジャズが受け入れられていったのは、それが自由を奏でる音楽だったからです

【ナレーション】 デイブ・ブルーベックは1942年に大学を卒業し、アメリカ陸軍に入隊しました 1944年の夏、彼はヨーロッパでの戦闘に参加するため船で出発しました

【ピアニスト:デイブ・ブルーベック】 私たちがヨーロッパに到着したのは、幸いにもノルマンディー上陸作戦が行われた三か月後のことでした 間もなく最前線に行くことになっていました しかしその前に赤十字の女の子たちが、慰問にやってくると聞かされました やってきたグループはトラックの荷台にピアノをのせていて、荷台の側面が開くと簡易ステージになりました その時誰かが拡声器でこう言いました ピアニストはいませんか 誰かここでピアノをひける人はいませんか 誰も進み出る気配がなかったので、最後に新入りの私が手を上げました 私はステージにのぼって演奏しました するとそれを聴いていた大佐があとでこう言いました 彼を最前線に行かせるな、ここに留まらせてバンドを作らせよう

【ナレーション】 当時アメリカの軍隊には人種差別が根強く残っていましたが、 デイブ・ブルーベックのバンド、ウルフパックバンドは一味違う存在でした 肌の色に関係なく、メンバーは一緒に生活し、演奏しました そしてヨーロッパに平和が戻るまで、戦地の兵士達に自由のシンボルジャズを届け続けたのです ヨーロッパでの戦いが終わりアメリカの兵士たちは、自由の勝利を掲げて祖国に凱旋しました しかし黒人達にとってもうひとつの戦いは、未だ終わっていませんでした

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 ミュージシャンの周りで起こる出来事は、彼らの作品や演奏に大きな影響を及ぼすものです 第二次大戦中、科学技術はあらゆるもののスピードを早めました プロペラ機からジェット機へ、さらに原子爆弾のあたえた衝撃、そうした時代とともに音楽も加速し始めたんです

【ナレーション】 1945年11月、原子爆弾の投下と日本の降伏から三か月後、 チャーリーパーカーはついにはじめての、自分の名前によるレコーディングを行いました トランペットはディジーガレスピーと19歳の新人マイルスデイビス、 ベースはカーリーラッセル、ドラムはマックスローチ それは戦争が終わり、新しい時代の始まりを告げる一枚のレコードとなりました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ココという曲は天才チャーリーパーカーを、世界のジャズシーンに解き放ちました ジャズの歴史の転換点を成す偉大な作品です それ以前の2年間はレコード制作がストップされ、彼の演奏を知る人は数えるほどしかいませんでした 彼の音楽の印象を一言で言うなら、爆発です それはルイアームストロング以来のショッキングな新しさでした

【ナレーション】 ニューヨークで革命が起きていた あるサックスプレイヤーは当時を振り返ってこう語ります そのあまりにも斬新な音楽性は、ジャズミュージシャン達の耳にも異色なものとして聞こえました ジャズシーンにはチャーリーパーカーとその他大勢という2種類しかいない そんな言葉がささやかれるほどでした 戦後の幕開けと同時に炸裂したチャーリーパーカーの音楽 ジャズの伝統への反乱か、カルト的な音楽集団か、 パーカーの音を一度耳にした人は、戸惑いながらも次第にその魅力に引き込まれていくのです 大抵の音楽は人の記憶を揺さぶるものだ しかしあの頃の音楽は、一切の記憶、過去との繋がりを拒んでいた、 氷のように無表情なドラマーは、変幻自在で混沌としたリズムに身を委ね続けていた 緩やかな流れにも似たジャズビートと、ブルースの伝統はこの時、 一切川底から押し流されてしまったかのように見えた 時がたち、私たちが当時のことを遠くから眺められるようになった今なら、 その新しい音の奥に、古いフィーリングが活かされていることがわかる しかし私たちが物事の真相に気付くのは、その時に受けた衝撃のずっとあとなのだ