JAZZの歴史|第4回

JAZZ|第04回|ビッグバンドの時代

YouTubeより引用 https://youtu.be/IBzETdgl2RY

【ナレーション】 1929年10月24日ニューヨークの株式市場が突如大暴落しました。それをきっかけにはじまった大恐慌はアメリカにとって南北戦争以来最悪の危機となりました。誰かがへまをやらかして、史上最も贅を極めた乱痴気騒ぎに、幕が降ろされた。

再び訪れた息苦しい生活。 我々は青春時代を振り返り、今の恐怖を表す言葉を探した。それでもドラムの低いうなり声や、トロンボーンの荒い息遣いが時折私を20年代初頭へ連れ戻してくれる。

メチルアルコールを飲み毎日がより良くなっていた時代。 スカートを短くしようと試みた時代。 はい、バナナはありません。そんな歌とセリフが流行った時代。 あの時代に青春を過ごした我々には全てがバラ色に感じられる。 自分たちを取り巻く環境をあれほど強烈に感じられることなどもう二度とないからだ。

ジャズエイジはこうして幕を閉じました。

【ナレーション】 1930年代の幕開けとともに、賃金労働者の四人に1人、およそ1500万もの人々が職を失いました。 ミシシッピ州では1932年のある1日で、州全土の1/4にあたる土地が競売にかけられ、多くの人々が路頭に迷いました。 合衆国内陸部で巻き起こった砂嵐は、はるか東のワシントンの空まで曇らせました。 小麦やトウモロコシ、綿花の値段は暴落したため作物は畑に放置され腐っていきました。 ボストンでは子供たちがボール紙のカカトをつけた靴を履き、閉鎖された工場のそばを通って学校へと向かいました。 ニューヨークでは仕事を失った人々がセントラルパークの中に粗末な小屋を建てて暮らし始めました。 音楽産業もこの危機から逃れることはできませんでした。 シカゴでは寒さに震える失業者たちが古いレコードを燃やして暖を取りました。 20年代半ば年間1億枚以上あったアメリカのレコード売り上げは600万枚へと急落。大半のレコード会社が事業を縮小しました。 蓄音機の会社は蓄音機の製造を一時ストップ。代わりにラジオの販売に力を注ぎ番組のスポンサーを務めました。 そしてラジオの普及は全米の何百万という人々があらゆる音楽、あらゆる演奏をタダで聞けるようになったことを意味していました。 ルイアームストロングは既に楽器演奏の世界に革命をもたらしていましたが、ニューヨークに戻ったのち、歌の世界にも革命をもたらすことになりました。それによって彼の人気はさらに絶大なものとなっていきます。

デュークエリントンも大きな成功を収めていました。 洗練され気品に溢れた彼の音楽は、人々の黒人に対する誤った認識を変えていく事になります。 またニューヨークのハーレムにあるダンスホールでは、「スイング」と呼ばれる新たなビッグバンドジャズが生まれつつありました。 しかしスイングが全米に広がるには、ベニーグッドマンという一人のユダヤ人の出現を待たなくてはなりません。 逆境の中で育ち、アメリカのある種の自由を体現した音楽、「ジャズ」は、大恐慌で疲れきった国民に精神的な活力を与える役割を求められました。その過程で「ジャズ」はアメリカ国内で人々を隔てているいくつもの壁をぶち壊していくことになります。

1929年、ルイアームストロングはシカゴのサウスサイドで、主に黒人の観客を相手に演奏を続けていました。ウエストエンドブルースをはじめとする彼らのレコードは黒人の間で話題に大人気でしたが、白人の間ではまだほとんど知られていませんでした。 しかしその状況は変わろうとしていました。 アームストロングはギャングの世界にも顔が利くトミー・ロックウェルというエージェントと契約を結びました。 ロックウェルは彼にソロプレイヤーとしてニューヨークに戻ってくれば、白人観客の前で演奏させてもっとビッグなスターにしてやると約束しました。 アームストロングは喜んでニューヨークに向かいましたが、ロックウェルの意向に反してバンドのメンバーも一緒に連れて行きました。

他のメンバーを見捨てるような真似は彼にはできなかったのです。 そして一行は車でニューヨークに向かう途中、大きな発見もすることになります。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 ルイとバンドのメンバーは、ルイの車に乗って一路東へと向かいました。 スーパーハイウェイができる前ですからシカゴからニューヨークへ行くまでには小さな町をいくつも通らなくてはなりません。 そしてどの街でも黒人の住む地区に入ると、ルイの音楽がスピーカーから流れてきました。ありとあらゆる店先からです。彼らは自分たちがそんなに人気があるとは知らなかったのでただただ驚きました。 その時ルイはこう思ったことでしょう。 「ちょっと待て、この調子なら何かもっとすごいことができそうだぞ!」

【ナレーション】 ニューヨークに戻ってきたアームストロングは、早速すごいことをやりはじめました 。 アームストロングボーカルスタイルはそれまでの常識を覆すものでした。

【作家:スタンリー・クラウチ】 前は皆こんな感じでした。 分かるでしょう。そこへアームストロングが出てきた。 彼の歌い方はそれまでとは全然違ってこんな感じでした。 今更こんなふうには歌えないでしょう、彼のをきいたあとではね。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 アームストロングはアメリカの歌唱法を発明し、全ての歌手に影響を与えました。 フランクシナトラ、ビングクロスビー、サラホーン、ビリーホリデイ。 そのスタイルはこう呼ばれました 「ポップス」

【ナレーション】 アームストロングはポピュラーソングのレコーディングを始めました。 「アイムコンフェッシン」、「スターダスト」、「捧ぐるは愛のみ」、「レイジーリバー」 どの作品にも彼独自のスタイルが貫かれていました。

【ミュージシャン:マット・グレイザー】 サックスが奏でる心にしみるメロディ、そこにボーカルが合いの手を入れる。 人に何かを言い聞かせるような感じです。 演奏自体は伝統的ですが、ルイが加わると新しいメロディーが生まれてきます。 歯切れがよく、完全に自由なリズム、ひとつの音に凝縮され抽象化される 。 自由で途切れない、スイングしてる。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ルイ・アームストロングはアメリカの音楽史上、最も大きな影響力を持った歌手だと思います。 彼は聴衆をあっと言わせる才能を持っていました。楽器演奏と同じように自由自在に即興で歌をうみだす才能です。 それにも増して凄いのは、中心となるメロディーを歌いながら、その合間に新しいメロディーを効果的に付け加えたことです。 例えばこう歌う。 時には喉からこんなしわ枯れ声を、こんな感じです。 しかもそのフレーズは楽器にも応用可能です。 あの素晴らしいヴォーカルを聞けばわかるでしょ!あんなフレーズを次々と生み出させる歌手はせいぜい2、3人しかいません。 非常にエネルギッシュで歌を自由に解釈している。 スターダストやボディアンドソウルのような有名曲もほとんど作曲しなおしていると言っていいほどです。 彼の先輩にあたる人たちも含め、あの時代の歌手でルイの影響を受けなかった者は一人もいません。

【ナレーション】 今やルイアームストロングは他のあらゆるミュージシャンに影響力を持つ、「スター」となっていました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ある意味ビッグバンドというのは、バプティスト教会における「コールアンドレスポンス」を再現したものです 初期のフレッチャーヘンダーソンのアレンジなどサックスと、ブラスセクションが文字通り互いに呼応しあっています。 ビッグバンドには三つのセクションがあります。 最初がサックスやクラリネットなどリード楽器のセクション、二番目がトランペット、そして年々重要性を増していくトロンボーン、トロンボーンは最初は一人しかいませんでした。 これらをまとめてブラスセクションと呼びます。 三つめがリズムセクション。 以前はギターやバンジョーも入っていましたが、のちにドラムベースピアノのみっつになりました。 これら三つのセクションが機械のギアのように動きます。 ビッグバンドはこういった多くの楽器をうまく調和させなくてはなりません。 一つ一つのセクションが互いに連動しあい、よりエキサイディングでクリエイティブの方法を探り、純粋にアメリカ的な新しい音楽を作り出しているんです。

それはアメリカで発明されたアメリカの交響曲です。

【ナレーション】 ローズランドはブロードウェイの51番街にあり、マンハッタンで最もエレガントな内装が施されたダンスホールでした。フレッチャーヘンダーソンのバンドは、断続的に20年近くにわたってこのローズランドを拠点に活動していました。ヘンダーソンとアレンジャーのドンレッドマンが、ジャズの新しいスタイル「ビッグバンドスイング」を作り出したのもこの場所でした。 その間にヘンダーソンの楽団に関わったミュージシャンの中から、多くのスターが生まれました。 ルイ・アームストロング、レッド・アレン、チュー・ベリー、ベニー・カーター、ロイ・エルドリッチ、そしてずば抜けた才能を持つサックスプレイヤー、コールマン・ホーキンス。 「これまでに聴いた中で最も力強く活力のあるバンドだ」ホーキンスはそう言いました。 ヘンダーソンがメンバーに一声掛け演奏が始まると、彼らに敵うバンドはほとんど存在しませんでした。

【ナレーション】 しかしローズランドで踊っていた客は全員白人でした。黒人はフロアに立ち入ることを禁止されていたのです 。 そんな中、ハーレムにある「サボイボールルーム」だけは誰でも入場することができました。

【ダンサー:ノーマ・ミラー】 厳しい人種隔離がありました。 でも驚いたことにサボイはアメリカではじめて、いえ、世界で初めて、全ての人種に対して門を開いたんです。 当時はそれに気づきませんでした。 私は白人と黒人が一緒にダンスをするのが当たり前という世界で育ってきたからです。 他の場所へ行くまでその特殊性に気づきませんでした。 サボイでは白人と黒人は融和していたんです。

【ダンサー:フランキー・マニング】 白人と黒人が一緒に踊っているとか、私もそんなことは全然意識していませんでした。今日も大勢踊りに来ているなってだけです。黒も緑も黄色も全然関係ありません。 重要なのはそいつがどんないかしたダンスを踊るかってことだけです。 白人が来ようが黒人が来ようがそんな事で騒ぐ奴などいません。 サボイにいる連中が目を輝かせるのはこんな時です。 「おい、あいつのダンス最高だ!」です。

【ナレーション】 1933年悪名高い「禁酒法」が廃止され、人々は13年ぶりに酒をおおっぴらに飲むことができるようになりました。 しかし、解禁直後に出回った酒は質の悪いものが多く、禁酒法時代を懐かしむ声もあったようです。 ニューヨークの街に次々とナイトクラブがオープンしましたが、経営状態は決して良いものではありませんでした。特にもぐり酒場から合法的なクラブにリニューアルされた店は、ほとんどの場合儲けを減らしていました。 近所に酒屋が開店し人々が自宅で酒を飲むようになってしまったためです。 客を呼び戻すためこれらのナイトクラブは、自宅では味わえないエンターテイメントを提供する必要に迫られました。 その先頭に立ったのが派手好きな興行主ビリーローズでした。彼は様々な趣向を凝らし、1000人もの客が入れる豪華なクラブを作る計画を発表しました。 その一環として、ローズは客を呼べる白人バンドを探しました。そこで白羽の矢を立てられたのがベニー・グッドマンでした。 苦しい時代の中つつましい成功を収めていたグッドマンですが、彼は決して自分の境遇に満足していませんでした。 雇い主から要求される音楽と、自分の本当にやりたい音楽との間にギャップを感じていたからです。 グッドマンはハーレムのクラブで新しい音楽を吸収し、チックウェッブやフレッチャーヘンダーソンの演奏に大きな刺激を受けました。そして自分と同様純粋なジャズをやりたいと願う、若手の白人ミュージシャンを集めました。 トランペッターのバニー・ベリガン、シカゴ出身の力強いドラマー、ジン・クルーパー、そして若いシンガー、ヘレン・ウォード。 彼女の美貌は、興行主ビリーローズがグッドマンのバンドを雇う、大きな決め手となりました。

【ライター:ジェームズ・マー】 その夏ベニーのバンドは充実した夏を過ごしました。 そしてビリーローズとの契約が終わる最後の晩に事件が起こりました。 広告代理店の男がやってきて、グッドマン達にラジオ番組のオーディションを受けないかと誘ったんです。 3時間ぶっ通し音楽だけで構成される前代未聞の番組です。 放送は土曜の夜、彼らにとってはまたとないチャンスでした。

【ナレーション】 1934年 、NBC は「レッツダンス」という新しいラジオ番組を企画していました。 この番組には三つのバンドが必要でした。 一つはルンバを演奏するバンド、一つは甘いダンス音楽を演奏するバンド、そしてもう一つはフレッシュでホットなスイングジャズを演奏するバンドでした。 それこそグッドマンがやりたいと望んでいた音楽に他なりませんでした。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 レッツダンスのオーディションは代理店の中で行われました。 オフィスの中で演奏が始まると、そこで働いている若い社員が全員集まってきてダンスを始めました。 そして最後に投票が行われる事になりました。 一位を獲得したのはもちろんベニーグッドマンのバンドでした。 そして彼らは仕事を手に入れました。

【ナレーション】 しかしここで問題が持ち上がりました。 彼らの演奏レパートリーは、番組で求められている時間を満たすには不十分だったのです。 グッドマンはその問題を、友人のシンガー、ミルドレッド・ベイリーに相談しました。

【ライター:ジェームズ・マー】 ミルドレッドは言いました。 バンドの演奏は素晴らしいわ、でも他のバンドとの大きな違いが見つからない、もっと強い個性を出しなさいよ そして突然こう言いました。ハーレムの曲をやってみれば? 横で大物プロモーターも話を聞いていました。 彼はベニーをある人物にひきあわせました。フレッチャーヘンダーソンです。 経済的苦境にあったヘンダーソンは、喜んで自分の編曲レパートリーをグッドマンに売り、さらに新しい編曲まで手がけました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ベニーのバンドに際立ったソロプレイヤーはいませんでした。 その点ではフレッチャーヘンダーソンのバンドに遠く及びませんでしたが、代わりにアンサンブルは磨き抜かれていました。だからヘンダーソンは彼らのために編曲をするのが楽しくてしかたなかったようです

【ナレーション】 グッドマンは後にこう語っています。 フレッチャーヘンダーソンがいなかったとしても、私たちはかなりいいバンドになったろう。 だが今のような姿とはかけ離れたものになっていたに違いない。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 グッドマンがヘンダーソンからもらったレパートリーの一つが、キングポーターストンプです。 低音が力強い。

【ナレーション】 サボイローズランドといったダンスホールで生まれ育ったスイングミュージックは、白人のバンドリーダーの演奏によって全国に放送されるようになりました。

【俳優:オシー・デイビス】 グッドマンはもともとジャズの主流から離れたところで活動を始めた人物です。 一歩離れたところ立ちながら、心に響いた音楽を味わい、その最も良い部分を吸収した上で、ジャズの主流に足を踏み入れたんです。

彼はそこで人を喜ばせることを学びました。 それこそジャズの根底にあるものです。 ジャズのお陰で、彼は人を喜ばせる精神を掴むことができたんです。

【ナレーション】 レッツダンスは人気番組となり、土曜の夜は多くの若者がこの番組を聴いて過ごすようになりました。 それに伴ってベニーグッドマンの人気も急上昇しました。

【サックスプレイヤー:ジェリー・ジェローム】 当時、私は医学部にいて病理学を勉強していましたが、土曜の夜12時になると本を放り出してラジオをつけました。 病理学の勉強はしばらく忘れて、体の細胞を運動させてやったんです。 本当に素晴らしい時間でした。

【ナレーション】 番組のリスナーはポピュラーソングを好んだので、グッドマンはヘンダーソンに頼み、おなじみのポピュラーソングをビッグバンド用に編曲し直してもらいました。

【ライター:ジェームズ・マー】 ベニー・グッドマンのバンドは、楽譜に書かれた指示や音符を正確に再現することで有名でした。 三連音符があれば規則正しく三連音符を演奏しました。 そしてフレッチャー・ヘンダーソンは、彼らのためにポピュラーソングの編曲を始めました。 誰もが知っていて口笛を吹いたり、シャワーを浴びながら歌ったりするような歌です。 6人の男が集まって地下室かどこかで演奏しているようなマニアックな音楽じゃありません。 それはまさしくポピュラー音楽でした。

【俳優:オシー・デイビス】 デューク・エリントンはまさに「優美」そのものでした。 しかも優美そのものでありながら、同時にそれを超える才能を持っていました。 彼は私たちに、「スタイル」や「気品」あるいは「流麗さ」といった言葉が意味するものを教えてくれました。 それまで私たち黒人は愚かだ、不器用だ、言い逃ればかりする、といった歪んだイメージで語られてきました。 しかしエリントンがステージに上がると、そんな間違った神話はすべて消え去りました。

【ナレーション】 長引く不況の中、デューク・エリントンはルイ・アームストロングと同様大きな成功を収めていました。 彼は今やアメリカで最も有名な黒人のバンドリーダーでした。 「ジャングルミュージック」と呼ばれた彼の音楽は、ニューヨークの「コットンクラブ」から、ラジオを通じて全米に流されていました。

【作家:アルバート・マリー】 人々のデューク・エリントンに対する第一印象は、彼が音楽に卓越した人物だということでした 。 なぜなら彼の初期の作品には、音楽のありとあらゆる要素が含まれていたからです。 彼の音楽のルーツがどこにあるか、誰にでも分かります。それはワシントンやアラバマの街角でも耳にする、なじみ深い音楽だからです。 人々はそれをこう表現しました エリントンはブルースにおけるクラシックを作り上げたんだ。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 彼はあるスタイルの音楽を聴いただけで、その真髄を理解し自分のものにすることができました。 彼はブルースのサウンドを多人数のアンサンブルに編曲する方法を編み出しました。 その音楽的構造は、彼ならではの独創的なものでした。

【作家:スタンリー・クラウチ】 エリントンの音楽は、民族性と普遍性を兼ね備えた叙事詩のようなものです。 特筆すべき点は、自分が黒人であることを理由に、彼が排他的な態度をとったりしなかったことです。 エリントンの音楽はどんな人にも開放されていました。 他人を快く迎え入れる寛容さは、文明が持つ最も高度な性格だと思います。ある意味文明の本質は、歓迎するという一言に集約されるからです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ルイアームストロングに比べると、エリントンの音楽には先進的な気高さがないという人もいますが、それは間違いです 。 ただエリントンはアームストロングと違って、夜型のジャズマンなんです。それは彼の音楽を聞けば明らかでしょう。 彼が鍵盤を一つ二つたたくだけで、私たちは何か楽しいことが起きそうな夜の雰囲気につつまれるんです。

【ナレーション】 1934年、順風満帆のエリントンを思いがけない不幸が襲いました。母のデイジーが癌を宣告されたのです。 エリントンにとって母親は、世界の中心に位置する存在でした。 必死に良い医者を探す息子の努力も虚しく、デイジーは翌年の5月に息を引き取りました。 エリントンはマネージャーにニューヨークで一番豪華な棺を用意してくれと頼み、葬儀の日には3000本の花々で教会を埋め尽くしました 。

「全てを支えていたものが亡くなった。私にはもうどんな望みも残ってはいない」 エリントンはそう言って悲しみに沈みました。 彼は酒をあおり、誰とも会おうとせず、母と一緒に暮らしたアパートから去ることを拒否しました。

【プロモーター:ヘレン・オークリー・ダンス】 彼は作曲をやめました。 演奏活動は続けましたが、作曲はやめてしまいました。母親が亡くなったことで彼の心の機能が一部ストップしてしまったんです。まるでこの世の終わりのように完全に打ちひしがれていました。

しかし彼の深い悲しみを癒せるものは、結局音楽しかありませんでした。エリントンは徐々に新しい曲を書き始めました。後に彼は列車の個室で曲を書き直している時、涙がこぼれ五線譜にシミができた、と回想しています。 その曲は「レミニッシングインテンポ」と名付けられました。

それは母のデイジーに捧げられた曲でした。細部に至るまで入念に作り込まれ、ソロのパートさえ譜面に書き込まれていました。 三つの楽章に分かれたこの曲は、13分もの長さがあったため、二枚のレコードを両面使って録音されました。 それは当時としては前代未聞の型破りな作品でした。 しかしほとんどの批評家や業界関係者は、エリントンの切り開いた新境地に否定的でした。 彼らは、「レミニッシングインテンポ」を思わせぶりな曲、気迫の感じられない駄作と批判し、エリントンに再び三分間のダンスミュージックを書くよう求めたのです。

【ライター:ジェームズ・マー】 ジャズには二つの世界がありました。 一つはミュージシャンの世界、もう一つはライター、批評家、業界関係者などの世界です。 二番目の世界に属する人々は、しばしばジャズを一定の形にハメ、何を演奏するかといったことまでミュージシャンに要求しました。そういう人々がジャズの規範を作り上げたんです。 良いミュージシャンは誰か、ダメな奴は誰かといった規範をです。 そういった批評をずっと読まされてきたミュージシャンたちは、きっと荒野をさまよっているような気分だったでしょう。

【ナレーション】 エリントンはどんな品種にも耳を貸そうとしてませんでした。 彼はその後40年にわたって自らの信じた道を極め、アメリカの音楽史上最高の部類に入る作品を、世に送り出していきます。

【ナレーション】 1935年春、ベニーグッドマンの人気は相変わらず高く、すべてがうまくいくかのように見えました。 ラジオ番組レッツダンスのリスナーは増える一方でした。しかしこの大成功は、思いがけないところでつまずきを見せることになります。 スポンサーであるビスケットメーカーで、従業員のストライキが発生したのです。そのあおりを食って レッツダンスは放送打ち切りとなってしまいました。 バンドを維持するため、グッドマンは慌てて新しい仕事を探しました。ようやく全米横断ツアーの契約がまとまりましたが、彼は気が晴れませんでした。 ほとんどのアメリカ人はまだスイングを聞いたことがなく、もっとセンチメンタルな音楽が流行る西部で、自分の音楽がどのように受け入れられるか不安に苛まれたのです。 ツアーは7月の半ばに始まり、一行は行く先々で、一晩限りのライブを行いました。 バスをチャーターするお金がなかったので、自分たちで車を運転して大陸を横断しなくてはなりませんでした。

さらに悪いことに、グッドマンの不安は的中しました。 デンバーのダンスホールでは、30分演奏したところで出て行くよう命じられました。 支配人は彼らにこう言いました。 「私はダンスバンドを雇ったんだ。君たちはワルツも演奏できないのか」 コロラド州のグランドジャンクションでは金網の後ろで演奏することになりました。 バンド演奏に怒った客がウイスキーボトルを投げつけてくるためです。 西へ進むにつれグッドマンの心は重く沈んでいきました。 奇跡でも起こらない限り、これ以上バンドを維持するのは不可能だ。もはやそう考えざるを得ない状況だったのです。

1935年8月21日、一行は最終目的地ロサンゼルスに到着しました。その時グッドマンはこう思いました、やっと契約も終わりだ、あとは列車でニューヨークに帰ればすべておしまい。またいっかいのクラリネット吹きに戻って出直せばそれでいい。 しかし最後の演奏場所で奇跡が起こりました。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 一行がそこで見たものは、入場を待つ客の大行列でした 。 彼ら思いましたこれは何の間違いだ!?

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ジャズを演奏するな。客はダンスミュージックを聴きたいんだ。 ベニーはそれまであらゆるホールの支配人からそう言われてきました 。だから黒山の人だかりを見ても賭けに出ようとはしませんでした。バンドはワルツやポップスを演奏しましたが、客はそわそわするばかりでちっとものってきません。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 客席にはシラけた雰囲気が漂っていました。 やがてメンバーの一人が言いました。もう構うもんか、どうせだめなら好きな音楽を好きなように演奏しよう。 そしてキングポーターストンプが始まりました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 それこそ客が待ち望んでいたものでした。 彼らはラジオで聴いたジャズミュージックを聞きたかったんです。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 観客は歓声をあげ、ステージに殺到し叫んだりジャンプしたりしました 。 それを見て誰よりも驚いたのは演奏しているメンバー自身でした。 翌朝ベニー・グッドマンは一躍有名人になっていました。

【ナレーション】 ルイ・アームストロングに始まり、ハーレムのダンスホールで育まれたスイングミュージックは、今や全米にこだましていました。

ビッグバンドによるスイングジャズの時代がここにはじまったのです。