JAZZの歴史|第1回

JAZZ|第01回|ニューオーリンズ

YouTubeよりテキスト引用
https://youtu.be/kIWftJcSfYA

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ジャズはアメリカを映し出す鏡です。
ジャズはアメリカ人にアメリカという国の本当の姿を教えてくれます。
ジャズという音楽の持つパワーと革新性は何人もの人間が集まって
即興で芸術を作り上げる点にあります。
何人かの人間が集まりお互いがアイデアをその場でぶつけあい即興で芸術をうみ出すんです
バッハもよく即興演奏やったそうですがまさか第二ビオラに向かってオッケーカンタータをやろう
とは言わなかったでしょう、でもジャズにはそんな自由があるんです
夜中にバーかどこかで四人のミュージシャンが顔をあわせれば
すぐに何をやる?ブルースでもやろうかというはなしになります
そして演奏が始まる音楽による ?カイオウ? です
みんな互いの演奏を聴きそれに反応しながら自分の音を出す
それが我々の芸術です演奏者の間に生まれる対話、私たちは音楽で話し合ってるんです。

【ナレーション】
ジャズはアメリカの音楽です
それはこの国が抱える様々な葛藤の中から生み出されました持つ者と持たざる者幸せなものと不幸せなもの
都会と田舎男と女白人と黒人ヨーロッパとアフリカ
アメリカという新世界で相反する者同士が時にぶつかりあい
時に混ざり合い独自の芸術を作り上げていったのです
ジャズは即興の芸術です五線譜の上ではなく演奏という場の中から新たな音楽が生み出されます
ブルースをルーツとし豊かな伝統と独自のルールを持ちながらも
常に新しい演奏新しい感動を求められるのです
ジャズは人生そのものですそれは日々の生計を立てる仕事であり
栄光と挫折が交錯するギャンブルであり艶やかな情愛合でありきらびやかなファッションであり
ごくシンプルな人生の真実を表現するものです
ジャズが人気を博した時代もあれば存亡の危機に瀕した時代もありました
しかしどの時代であれ常にジャズはアメリカとアメリカ人の姿を映し出す鏡のようなものでした
ドラマーのアートブレイキーはこう語りました
ジャズは日常生活のほこりを払い落とすもの
ジャズの強烈なスイングは躍動する生命のリズム生命の賛歌なのです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ジャズは人生を謳歌するもの生活のすべてを表現するものです
その偉大さ不条理、愚かさ、知性、セクシャリティ、奥深さ、人生のあらゆる側面を表現します
ジャズとは個人主義そのものです
ステージに出て行ってだれがどうやろうと関係ないこれが俺のやり方だと言っているようなものです
演奏中のジャズミュージシャンはその場で何かを想像しその過程を見せてくれる点では
探検家開拓者実験か科学者をすべて合わせたようなものです

【ナレーション】
ジャズを作り上げてきた人々はアメリカのあらゆる場所あらゆる階層の出身でした
しかし彼らには一つの大きな共通点がありました
即興で芸術を作り上げる才能を持っていたことです
ニューオリンズの売春宿で働き享楽的な生活に明け暮れたピアノ弾きジェリーロールモートン
しかしその目覚ましい才能は初期のジャズを大きく発展させました
彼は初めてジャズを楽譜に起こしたことでも知られています
中流家庭で何不自由なく育った黒人少年
彼はやがてデュークエリントンと名乗り腕利きのミュージシャンを揃えたオーケストラを
自らの楽器として使いこなしました
2000以上の曲を書き残した彼は今ではアメリカ随一の作曲家とみなされています
ロシア系ユダヤ人の子として近頃スラム街に生まれたベニーグッドマン
非行に走らないようにと親が習わせた彼のクラリネットは後に全米をダンスの渦に巻き込みました
ボルティモアに生まれ悲惨極まりない少女時代を過ごしたビリーホリデイ
しかし彼女はその独特な歌唱法によってありふれた曲を偉大な芸術へと高めるマジックをもっていました
カンザスシティ出身で食堂車ロックを父に持つ Charlie PARKER は
ニューヨークでジャズに最大級の革命を起こしましたが、
34歳の若さで自らを滅ぼして逝きました
歯医者の息子としてイーストセントルイスで育った Miles Davis は生涯を通じて新しいサウンド求め続け
同時代に最も強い影響力を持つミュージシャンとなりました
父親の顔をろくに知らぬままニューオリンズの街角で育ちルイアームストロング、
彼の天才はその後のジャズに決定的な影響を及ぼしました
多くの人々がルイの暖かな歌や演奏に心を慰められました
彼の音楽はアメリカ人にとって今や心の故郷にも等しい存在です
だがジャズとは一体何なのだろう
我々の人生に立ち現れる全ての物事を考慮しなければ理解し得ないものなのだろうか

【ナレーション】
ジャズ発祥の地ルイジアナ州ニューオーリンズ1718年フランス人によって建設されたこの町は
スペイン領から再びフランス領となり1803年にアメリカ領となりました
その複雑な歴史と港町としての性格からニューオリンズには様々な文化様々な人種が溢れていました
アメリカ人イギリス人フランス人スペイン人そしてアフリカから連れてこられた黒人奴隷
人間の平等を唱えたアメリカにありながら19世紀初頭のニューオリンズは奴隷売買の中心地として栄えていましたしかし当時商品として売買されていた黒人奴隷の子孫がやがてジャズというアメリカを象徴する芸術を生み出すことになるのです。
奴隷取引の中心地であるニューオーリンズには南部の他の地域から多くの黒人奴隷が連れて来られました
その奴隷たちはこの街に様々な音楽を持ち込みました
労働の時に歌うワークソング宗教的な内容を持つ黒人霊歌
そして一人の呼び掛けに大勢答えるコールアンドレスポンスと呼ばれるスタイル
またニューオーリンズにはクレオールと呼ばれる人々がいました
フランスもしくはスペインの入植者と黒人との間に生まれた人々です
比較的裕福で普通の黒人よりも肌の色が白いクレオールは白人と同じ身分を与えられ
他の黒人たちを一段下に見ていました。
中には奴隷を所有している者もいたほどです
しかし彼らはヨーロッパのクラシック音楽を他の黒人達に伝える役割を果たしました
こうしてアフリカの音楽とヨーロッパの音楽が出逢い融合し、
ジャズを生み出す母体となっていたのです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ロマンチックな街、街角では屋台の男もアリアを歌う
様々な人種が混ざり合った生活
一つのブロックにイタリア人や、ドイツ人、クレオール
各地からやってきた黒人がいる
互いに混ざり合って住んでいるからお互い逃げようにも逃げられない
しかも雰囲気は昔から享楽的お互いに赤裸々な面も済み隠さず暮らしている
それでいてたくさんの境界があり宗教的な熱気もある
お互いに虫が好かない連中もいるが同じところに住んでいるから
なんとかやっていくしかない
ガンボというオクラのシチューはあの土地の代表的な料理ですが
白人も黒人もみんな同じガンボを同じように食べているんです

【ナレーション】
19世紀の中頃からニューオリンズの劇場で
ミンストレルショーと呼ばれる出し物が演じられるようになりました
これは白人の芸人が顔を黒く塗って黒人に扮し黒人風の歌や踊りコントなどを披露するものでした
そこに描かれたものは白人の目から見たゆがんだ黒人像に他なりませんでしたが
ショー人気を博したことで黒人のイメージを固定化する結果となりました
人種差別的な色は濃かったもののミンストレルショーにおける生き生きとした音楽やジョークは
多くの人々の心をつかみました
またしばらくすると本物の黒人がショーに出演して白人の作り上げた歪んだ黒人像を演じるという倒錯した現象も見られるようになりました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
黒人には優れた柔軟性や適応性があります
それはアメリカ人なら誰しもが認めることでしょう
コメディ、ダンス、音楽、それがどんな茶番劇であれ、どんな差別に満ちたものであれ
黒人のパフォーマンスには
アメリカそのものとでもいうべきものがありました
黒人によるエンターテインメントとそれを支配する白人
ミンストレルショーはその最初の構造を作り上げました
もっともそういう搾取の関係自体はずっと昔からあったものです
奴隷制という非常に侮蔑的な制度のもとでいきていくため
黒人は人間としての尊厳を損なうようなこともせざるを得なかったのです。

【ナレーション】
ミンストレルショーにおける最初の大ヒットはダディーライスという白人が書いたジムクロウという出し物でした
やがてこのジムクロウという名前は全ての黒人にとって忘れがたい差別の象徴となっていきます
1861年1月26日ルイジアナ州はアメリカ合衆国を離脱
その年の4月にアメリカを二分する南北戦争が勃発しました
しかし翌年の4月には北軍の艦隊がミシシッピ川に侵入し早くもニューオリンズを降伏に追い込みました
北軍の勝利によって自由になったニューオーリンズの黒人たちは
新たなエネルギーと想像力を獲得しました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
奴隷制度の廃止がジャズの誕生を可能にしました
アメリカという国の中心にいながら虐げられてきた黒人たちが生み出したんです
黒人は自分たちが紛れもないアメリカ人であるという自覚を持てずにいました
それでも彼らがアメリカ人という事実には変わりはありません
たとえ社会的に認められていなかったとしてもです。

【ナレーション】
南北戦争終了後の12年間、北軍は南部を占領し黒人奴隷を解放しました。
人種差別を禁止する法律が制定され、黒人の虐げられた歴史は終わりを告げるかのように見えました。
しかし1877年、北部の共和党と南部の民主党の間に政治的な取引が成立。
占領軍が撤退すると、以前と変わらぬ黒人差別のシステムが復活しました。
小作制度が奴隷制度に変わって黒人を支配し、KKK 団によるリンチも日常茶飯時となりました。
この頃に制定された、黒人差別を認める一連の法律を、ジムクロウ制度と呼びます。
ミンストレルショーの大ヒット作は、こうして黒人差別の代名詞となっていたのです。
しかし、ニューオリンズは最悪の状態をしばらくの間、免れることができました。
1890年代、ジャズの成立に必要不可欠な二つの音楽が、ニューオリンズにもたらされました。
一つは中西部の黒人ピアニストたちが作り出した音楽、 ラグタイムRAGTIME。
その心が弾むような軽快な音楽は、黒人霊歌、ミンストレルミュージック
ヨーロッパ民謡、行進曲など様々な音楽をもとにしていました。
大きな特徴は、今までにない新鮮で明快な、シンコペーションのリズムでした。
ラグタイムはその後四半世紀にわたって全米で大流行することになります。
同じ頃ニューオーリンズにやってきた、もう一つの音楽それがブルースでした。
この頃ミシシッピ川のデルタ地帯から、黒人労働者が続々とニューオーリンズに流れ込んできました。
綿花畑やさとうきび畑での労働よりもニューオリンズの港湾施設で働く方が収入が良かったためです。
そんな労働者達の引越し荷物の一つにブルースがありました。

【作家:ジェラルド・アーリー】
最悪の状況の中で自分の存在意義を見つけようとする行為、それがブルースです。
南北戦争以来、黒人は自分たち固有の美的価値を探し求めてきました。
ミンストレルショーによる歪んだ黒人のイメージ、その屈辱から自分たちを解放してくれる美的価値です。そこに出てきたのはブルースです。
ブルースは音楽の形式としては単純なので柔軟性がありいろいろな応用が可能でした。

【ナレーション】
ブルースは、多くの場合三つのコード進行と12小節の繰り返しという単純な形式で成り立っています。
しかし、その単純さゆえに演奏者の個性が強く反映され、無限のバリエーションを生み出すことができます。

【作家:ジェラルド・アーリー】
いくらテクニックだけあっても良いブルースは演奏できません。
必要なのは、ある種のフィーリングです。
そのフィーリングは基本言語のようなもので、それを元に様々な表現が形作られていくんです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ガンボを作るのにルーンがいるように、ブルースをやるにはフィーリングが必要です。
どんなにうまいスープがあっても、ルーンがなければガンボは作れません。
ブルースも同じです。

【ナレーション】
バクティスト派の黒人教会で歌われる聖歌、ブルースはその双子の兄弟であるといわれています。
確かにコールアンドレスポンスを始め、それら見られるいくつかの特徴がブルースにも受け継がれています。
しかしブルースは、神を称える歌ではなく、人間の喜怒哀楽を表現する歌です。
あるニューオーリンズのミュージシャンはこう言いました。
片方が神様をお救いくださいと祈れば、もう片方は旦那様お許し下さいと嘆願する。

【作家:アルバート・マリー】
逆説的ですが、ブルースを歌うことはブルース、すなわち悲しみは憂鬱を捨て去る行為なんです
ブルースの歌詞は大抵物悲しい。でもそれを歌うことで悲しみが晴れる。
音楽としてのブルースは心のブルースを忘れるためにあるんです。

【ナレーション】
ニューオリンズでは、ブルースのメッセージを管楽器で表現する試みが行われるようになりました。

【作家:アルバート・マリー】
当時のミュージシャンが使っていた管楽器は、南北戦争時代の軍隊のお古でした。
だから演奏も軍隊風に。
そんな軍隊風な演奏だったのが教会で歌われる賛美歌を真似て、突然綺麗なメロディーを演奏するようになりました。
音の終わりにビブラートをつけてこんな具合に・・・。
これでパワーとフィーリングが生まれます。
これはとても重要な出会いです。今までまったく正反対に位置づけられていたものが、一緒になったんです。
つまり、神聖な教会の音楽と、世俗的なブルースとの融合です。
教会音楽とブルース、ミュージシャンは管楽器を使い、その両方の要素を自在に組み合わせて演奏するようになりました。
天使と悪魔の両方を。

【ナレーション】
こうしてブルースはその後100年間、ジャズをはじめとするあらゆるアメリカ音楽の、豊かな源泉となっていきます。

【作家:アルバート・マリー】
つまるところ、ビッグノイズを最初にやり始めたのはバディボールデンさ。
そう奴はパワフルなトランペット吹きでテクニックもあった。
まぁ元祖と呼んでやってもいいんじゃないかな。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ここで登場したのがバディボールデン。黒人でキリスト教徒でした。
彼が革新的だったのは演奏にミュージシャンの強い構成を持ち込み、ボールデンならではのサウンドを聴かせたことです。

【ナレーション】
ジャズを演奏して有名になった最初のミュージシャン、バディボールデンは1877年に生まれました。
彼の生涯についてはボロボロの写真が1枚残っているだけで、あまり詳しいことは知られていません。
ボールデンは他のどのミュージシャンよりも大きく力強い音を出すことができました。
またその豊かで斬新な音楽的アイデアは、当時の観客に驚きと喜びの両方を与えました。

【ナレーション】
1906年頃にはボールデンはニューオーリンズで最も有名な黒人ミュージシャンとなっていました。
彼の練習を聴くため、毎朝子供達が家の前に集まり彼のことをキング・ボールデンと口々に称えました。
ボールデンの音楽が特にもてはやされた場所は、ストーリービル、売春宿が所狭しと立ち並ぶ
ニューオーリンズきっての歓楽街でした。
ニューオーリンズはその手の風俗産業が盛んな街でした。
ジャズはありのままの人間を描き、その美しさやみじめさを表現する音楽です。
そういうリアルな音楽だから、ジャズは男と女の生々しい姿もとらえます。
堕落したものもそのままうけとめます。
それが音楽に独特の歯ごたえとフィーリングを与える、
うわっつらのきれいごとじゃない、人間の生の姿を表現するんです。

【歴史家:ブルース・ボイド・レイバーン】
ボールデンの音楽的ピークはストーリービルの最盛期と時期を同じくしています。
当時は誰もが胸をワクワクさせながらストーリービルにやってきました。
そしてボールデンもあの街の享楽的な雰囲気にどっぷりと浸かるようになりました。
その挙句、彼は酒におぼれ出番をすっ飛ばすようになってしまったのです。

【ナレーション】
大量のアルコールは、ボールデンの精神と肉体を蝕んでいきました。
かれは頭痛に悩まされバンドのメンバーに喧嘩を売り、
他のミュージシャンに追い越されるのではないかという不安に怯えるようになりました。
やがて彼は自分の楽器にさえ恐怖感を抱くようになりました。
母親がいくら気を沈めようとしても無駄でした。ボールデンの精神状態はますます進んだものとなり、暴力を恐れた母親はついに警察を呼ばざるを得ませんでした。
ジャズ界最初のスタープレイヤー、バディボールデンがその後人前で演奏することはありませんでした。
彼が、その栄光と挫折に満ちた生涯を閉じた場所は、ルイジアナ州立精神病院でした。

【ナレーション】
ジェリーロールモートン
本名フェルディナンドジョーゼフラモスは、1890年ニューオーリンズに生まれました。
本人は自分の家族は全員フランス生まれだと主張していましたが、
母親がハイチ出身の未婚女性である事以外、何もわかっていません。
一時期モートンは、フランスオペラを好む保守的な曽祖母の下で育てられました。
しかし彼が興味を惹かれたのは全く別の世界でした。
モートンはストーリービルの売春宿で仕事を見つけ、十代の半ばから
娼婦や客を相手にピアノ演奏を始めたのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
彼は夜遊びの場が大好きで、クラブなどに出入りしていました。
いかがわしい連中が好きで、おしゃべりで、ナイフをちらつかせたり、
葬式の楽隊で演奏したり、パレードで歌ったり、そんなことが大好きでした。

【ナレーション】
モートンはこの仕事の件は曾祖母に隠し夜警の仕事をしているのだとごまかしていました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
夜警の仕事というのはあながち嘘じゃありませんよ。
何の番をしていたかは別ですけどね。
普通の夜警よりは面白いものを見たことでしょう。
のぞき窓を通して娼婦の振り付けのBGMを演奏するんです
ところどころにちょっと気の利いたフレーズを加えたりして、すべてが上手くはこべばチップもたんまり。

【ナレーション】
ラグタイム、ミンストレルミュージック、ブルースを自在に組み合わせ、斬新で複雑な即興演奏をするモートンは一流のピアノ弾きとなっていました。
しかもピアノだけに留まらず、歌や踊りも披露する幅の広い芸人になっていました。
後年彼は、ジャズを作り上げたのは自分だと嘯くようになります。
モートンは決してジャズの創始者ではありません。
しかし後にスタンダードナンバーとなる曲をいくつも作曲し、
草創期のジャズに合わせに大きな足跡を残しました。
またそのようなジャズナンバーを楽譜の形にしたのも彼が最初でした。
やがてモートンの仕事はそう祖母の知るところとなりました。
勘当を受けて家を追い出された彼は、17歳で放浪の旅に出ます。
その旅は長いものとなり、彼はアメリカ各地を転々としました。
メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、カンザスシティ、オクラホマシティ、ロサンゼルス
彼は生きるために様々な仕事をしました。
ヴォードビルショーの芸人、プロの賭け事師、買春宿の客引き、
そしてコーラに塩を混ぜたものを結核の薬と称して売りさばく、詐欺までやってのけました。
それでも彼はピアノを弾き続けました。
モートンの行くところ、常に彼の音楽もついて回ったのです。

【ナレーション】
バディーボールデンとジェリーロールモートンがニューオーリンズでやっていた音楽は、
汚い音楽という意味の、ラッティミュージック、あるいは粗野で下品な音楽という意味の、ガットバケットミュージックという名で呼ばれました。
またその燃えるようにエネルギッシュな性格から、ホットミュージックと呼ばれることもありました。
しかしその音楽はいつしかジャスと呼ばれるようになりました。
これは娼婦たちが好んで付けたジャスミンの香水から取られたものだと言われています。
ジャスがどうしてジャズという名に変わったのか、その経緯は定かではありません。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
JassだとJをとったらアス、つまり尻という意味になるので、
SをZに置き換えたんでしょう
もともとジャズという言葉には、出産生殖という意味があったんです。
創造主という言葉を別にすれば、これほど根源的な言葉はないでしょう。

【作家:ジェラルド・アーリー】
ジャズという言葉が何を意味するかについてはいろいろな説があります。
初めてジャズを聴いた者は、そのテンポの速さに驚いたことでしょう。
それで速さを上げるという意味のアフリカの言葉から、ジャズと名図けられたという説もあります。
映画もほぼ同じころに誕生しましたが、初期の映画もジャズもテンポの速さが特徴的でした。

【ナレーション】
1910年頃までに色々なバンドがニューオーリンズに誕生しました。
白人バンドで一番有名になったのはパパジャックレインのバンドでした。
ドラマーでありボクサーであり鍛冶屋でもあった Rain は
小学校の時にリライアンスブラスバンドの名でバンドを結成し、それが40年以上も続いたのです。
新しいスターが続々と誕生しました。
フレディケパード、キッドオリー、ジョーオリバー
そして半世紀の間共演するミュージシャンを驚愕させ続けた天才、シドニーベシェ。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
シドニーベシェはニューオリンズミュージックの詩人です。
子供の時から難なく楽器を吹きこなす、自他ともに認める天才。
大人よりうまく吹くことができました。
レッスンを受けても先生のほうが驚く始末。
彼の内面に渦巻く炎が、楽器を通して噴き出してくるんです。

【ナレーション】
クレオール系のベシェの家族は、彼がプロのミュージシャンになることに反対でした。
しかし本人は他の道に進むことなど全く考えていなかったようです。
クラリネットを自己流で覚えたシドニーは、わずか10歳にしてフレディケパードのバンドと互角に渡り合う腕前を披露し、大人たちを驚かせました。
シドニーは16歳になると学校を退学し、フルタイムで音楽に没頭しました。
そしてミュージシャンとして、ニューオーリンズでも比類なき名声を確立していきます。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ジャズミュージシャンを語るということは、その演奏に反映されたミュージシャンの個性を語るということです。
初期にはビブラートを駆使、ときにはもっと攻撃的に。
シドニーの出す音はブルースにあふれていました。

【歴史家:ブルース・ボイド・レイバーン】
ミュージシャンが、自分の個性を前面に押し出すのはかなり珍しいことでした。
当時はミュージシャンよりも、作曲家の意見が尊重されたからです。
まだ十代のベシェは、ニューオーリンズのミュージシャン仲間から、本物の天才児と認められるようになりました。
彼はただの古びたクラリネットを使って、信じられないようなすごい音を出すことができたんです。

【ナレーション】
ジェリーロールモートンと同じく、シドニーベシェもやがて故郷のニューオーリンズを後にしました。
そして南部や中西部でヴォードビルショーやカーニバルの出し物などに出演するようになりました。
そのようなミュージシャンの移動に伴って、ジャズもニューオーリンズという枠を超え、アメリカ全土へと広がっていったのです
1901年にビクタートーキングマシーンカンパニーが
最初の蓄音機を出して以来、レコード産業は瞬く間にビッグビジネスへと成長していきました。
当時、最大のヒットを記録したのはオペラ歌手のエンリコカルーソや、ジョンフィリップスーザ率いる吹奏楽団のレコードでした。
まだこの頃ジャズはライブで聴いて楽しむものと思われていたため、ジャズをレコーディングしようと考える者はいませんでした。
1917年2月26日ニューヨークのスタジオで、史上初のジャズレコードが吹き込まれました。
演奏者はオリジナルディキシーランドジャズバンドというバンドでした。
オリジナルディキシーランドジャズバンドはイタリア系のコルネットプレイヤー、ニックラロッカをリーダーとする白人の5人組でした。
靴職人の息子だったラロッカは、働き者で型破りで野心に溢れた人物でした。
ラロッカの父親はジャズ嫌いだったため、彼は屋外にあるトイレに隠れ、独学でコルネットの演奏法を覚えました。

【ナレーション】
彼らがスタジオで演奏したのは、ニューオリンズではよく知られた二つの曲、デキシーランドジャズバンドワンステップと、リヴァリーストラブルブルースでした。
その演奏は生き生きとしたものでしたが、録音技師からはレコードの片面に入るようもっと早く演奏しろと注文をつけられました。
1917年3月7日に発売されたレコードは大ヒットを記録しました。
ラロッカが馬のいななきのようにコルネット吹き、ラリーシールズのクラリネットが、時を告げるにわ鶏のような音を出すというコメディタッチの演奏が受けたのです。
ほとんどのアメリカ人はこのレコードを通じて、初めてジャズという音楽に接したのです。
1枚75セントのレコードは、25万枚以上のヒットとなりレコード売り上げの新記録を達成しました。
スーザよりもカルーソよりも売れたのです。
その後オリジナルディキシーランドジャズバンドは、ジャズの創始者という看板を掲げてイギリスツアーを行い、センセーションを巻き起こしました。
しかしバンドは徐々に崩壊への道を歩んでいきました。
1918年トロンボーンのエディエドワーズが陸軍に徴兵。
1919年ピアニストのヘンリーラガスがインフルエンザで死亡。
1921年ツアーに疲れたクラリネットのラリーシールズが脱退。
そして1925年リーダーのニックラロッカも神経衰弱に陥り、ツアーを断念。
ミュージシャンを止めた彼は、ニューオーリンズに戻って建築関係の仕事を始めました。
ジャズの歴史に1ページを刻んだニックラロッカ。
しかし彼はジャズは白人の手によって作られたものだと主張し、黒人の果たした役割を死ぬまで認めようとしませんでした。
物書きの多くは、ジャズは黒人の音楽でアフリカのジャングルから来たものだと言っている。
私に言わせればあのリズム、あの音楽は白人のもので、黒人がそれを真似したんだ。
そもそも黒人が白人に匹敵する演奏をしたことなど、これまでに一度たりともない。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
アメリカの歴史を神話に例えれば、人種差別はその重要なエピソードです。
人はこの世界をよきものにすべきなのに、それと正反対のことばかりしている。
人種問題に向き合うことは、アメリカ人とは何かを問うことであり、解決することが極めて困難です。
それでも人種問題に取り組み、なんだかの成果を上げたい、人間としての勇気を示したいと思うのなら、
どれだけ誠実な態度で取り組むか、どこまで毅然とした姿勢を保てるかが問われるでしょう。
ジャズがアメリカ神話の核心にある以上、人種問題を避けて通ることはできません。
避ければかえって深みにハマります。
アメリカの社会問題は人種だけではありません。
しかし最大の問題は何かと言えば人種です。