JAZZの歴史|第1回

JAZZ|第01回|ニューオーリンズ

YouTubeよりテキスト引用 https://youtu.be/kIWftJcSfYA

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ジャズはアメリカを映し出す鏡です。 ジャズはアメリカ人にアメリカという国の本当の姿を教えてくれます。 ジャズという音楽の持つパワーと革新性は何人もの人間が集まって、即興で芸術を作り上げる点にあります。 何人かの人間が集まりお互いがアイデアをその場でぶつけあい、即興で芸術をうみ出すんです。 バッハもよく即興演奏やったそうですが、まさか第二ビオラに向かってオッケーカンタータをやろう!とは言わなかったでしょう。でもジャズにはそんな自由があるんです。 夜中にバーかどこかで、四人のミュージシャンが顔をあわせれば、すぐに何をやる?ブルースでもやろうか!という話になります。 そして演奏が始まる。 音楽による 会話 です。 みんな互いの演奏を聴き、それに反応しながら自分の音を出す。 それが我々の芸術です。 演奏者の間に生まれる対話、私たちは音楽で話し合ってるんです。

【ナレーション】 ジャズはアメリカの音楽です。 それはこの国が抱える様々な葛藤の中から生み出されました。 持つ者と持たざる者、幸せなものと不幸せなもの、都会と田舎、男と女、白人と黒人、ヨーロッパとアフリカ。 アメリカという新世界で相反する者同士が、時にぶつかりあい、時に混ざり合い、独自の芸術を作り上げていったのです。 ジャズは即興の芸術です。 五線譜の上ではなく演奏という場の中から新たな音楽が生み出されます。 ブルースをルーツとし、豊かな伝統と独自のルールを持ちながらも、常に新しい演奏、新しい感動を求められるのです。 ジャズは人生そのものです。 それは日々の生計を立てる仕事であり、栄光と挫折が交錯するギャンブルであり、艶やかな情愛であり、きらびやかなファッションであり、ごくシンプルな人生の真実を表現するものです。 ジャズが人気を博した時代もあれば、存亡の危機に瀕した時代もありました。 しかし、どの時代であれ常にジャズは、「アメリカとアメリカ人の姿を映し出す鏡のようなもの」でした。 ドラマーのアートブレイキーはこう語りました。 ジャズは日常生活のほこりを払い落とすもの。 ジャズの強烈なスイングは、躍動する生命のリズム、生命の賛歌なのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ジャズは人生を謳歌するもの、生活のすべてを表現するものです。 その偉大さ、不条理、愚かさ、知性、セクシャリティ、奥深さ、人生のあらゆる側面を表現します。 ジャズとは個人主義そのものです。 ステージに出て行って、だれがどうやろうと関係ないこれが俺のやり方だと言っているようなものです。 演奏中のジャズミュージシャンは、その場で何かを想像し、その過程を見せてくれる点では、探検家、開拓者、実験家、科学者をすべて合わせたようなものです。

【ナレーション】 ジャズを作り上げてきた人々は、アメリカのあらゆる場所、あらゆる階層の出身でした。 しかし彼らには一つの大きな共通点がありました。即興で芸術を作り上げる才能を持っていたことです。 ニューオリンズの売春宿で働き、享楽的な生活に明け暮れたピアノ弾き「ジェリー・ロールモートン」Jelly Roll Morton。しかしその目覚ましい才能は、初期のジャズを大きく発展させました。 彼は初めてジャズを楽譜に起こしたことでも知られています。 中流家庭で何不自由なく育った黒人少年、彼はやがて「デューク・エリントン」Duke Ellingtonと名乗り、腕利きのミュージシャンを揃えたオーケストラを、自らの楽器として使いこなしました。2000以上の曲を書き残した彼は、今ではアメリカ随一の作曲家とみなされています。 ロシア系ユダヤ人の子として近頃スラム街に生まれた「ベニー・グッドマン」Benny Goodman 非行に走らないようにと親が習わせた彼のクラリネットは、後に全米をダンスの渦に巻き込みました。 ボルティモアに生まれ悲惨極まりない少女時代を過ごした「ビリー・ホリデイ」Billy Holiday しかし彼女は、その独特な歌唱法によって、ありふれた曲を偉大な芸術へと高めるマジックをもっていました。 カンザスシティ出身で、食堂車のコックを父に持つ「チャーリー・パーカー」Charlie Parker は、ニューヨークでジャズに最大級の革命を起こしましたが、34歳の若さで自らを滅ぼして逝きました。 歯医者の息子としてイーストセントルイスで育った 「マイルス・デイビス」Miles Davis は生涯を通じて新しいサウンド求め続け、同時代に最も強い影響力を持つミュージシャンとなりました。 父親の顔をろくに知らぬまま、ニューオリンズの街角で育ちジャズにおけるソロ演奏の重要性を確率した「ルイ・アームストロング」。彼の天才はその後のジャズに決定的な影響を及ぼしました。 多くの人々が、ルイの温かな歌や演奏に心を慰められました。 彼の音楽は、アメリカ人にとって今や、心の故郷にも等しい存在です。 だがジャズとは一体何なのだろう。 我々の人生に立ち現れる全ての物事を考慮しなければ、理解し得ないものなのだろうか。

【ナレーション】 ジャズ発祥の地、ルイジアナ州ニューオーリンズ。 1718年にフランス人によって建設されたこの町は、スペイン領から再びフランス領となり、1803年にアメリカ領となりました。 その複雑な歴史と、港町としての性格から、ニューオリンズには様々な文化、様々な人種が溢れていました。 アメリカ人、イギリス人、フランス人、スペイン人、そしてアフリカから連れてこられた黒人奴隷。 人間の平等を唱えたアメリカにありながら、19世紀初頭のニューオリンズは、奴隷売買の中心地として栄えていました。 しかし当時商品として売買されていた黒人奴隷の子孫が、やがてジャズという、アメリカを象徴する芸術を生み出すことになるのです。 奴隷取引の中心地であるニューオーリンズには、南部の他の地域から、多くの黒人奴隷が連れて来られました。 その奴隷たちはこの街に様々な音楽を持ち込みました。 労働の時に歌う「ワークソング」、宗教的な内容を持つ「黒人霊歌」、そして一人の呼び掛けに大勢答える、「コールアンドレスポンス」と呼ばれるスタイル。 またニューオーリンズには、クレオールと呼ばれる人々がいました。フランスもしくはスペインの入植者と、黒人との間に生まれた人々です。 比較的裕福で、普通の黒人よりも肌の色が白いクレオールは、白人と同じ身分を与えられ、他の黒人たちを一段下に見ていました。 中には奴隷を所有している者もいたほどです。 しかし彼らは、ヨーロッパのクラシック音楽を他の黒人達に伝える役割を果たしました。 こうして、アフリカの音楽とヨーロッパの音楽が出逢い、融合し、ジャズを生み出す母体となっていたのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ロマンチックな街、街角では屋台の男もアリアを歌う。 様々な人種が混ざり合った生活、一つのブロックにイタリア人や、ドイツ人、クレオール、各地からやってきた黒人がいる。互いに混ざり合って住んでいるから、お互い逃げようにも逃げられない。 しかも、雰囲気は昔から享楽的お互いに赤裸々な面も、済み隠さず暮らしている。それでいてたくさんの教会があり、宗教的な熱気もある。お互いに虫が好かない連中もいるが、同じところに住んでいるからなんとかやっていくしかない。ガンボというオクラのシチューは、あの土地の代表的な料理ですが、白人も黒人も、みんな同じガンボを、同じように食べているんです。

【ナレーション】 19世紀の中頃から、ニューオリンズの劇場で「ミンストレルショー」と呼ばれる出し物が演じられるようになりました。これは、白人の芸人が顔を黒く塗って黒人に扮し、黒人風の歌や踊り、コントなどを披露するものでした。 そこに描かれたものは白人の目から見た、ゆがんだ黒人像に他なりませんでしたが、ショー人気を博したことで、黒人のイメージを固定化する結果となりました。 人種差別的な色は濃かったものの、ミンストレルショーにおける生き生きとした音楽やジョークは、多くの人々の心をつかみました。 またしばらくすると、本物の黒人がショーに出演して、白人の作り上げた歪んだ黒人像を演じるという、倒錯した現象も見られるようになりました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 黒人には優れた柔軟性や適応性があります。それはアメリカ人なら誰しもが認めることでしょう。 コメディ、ダンス、音楽、それがどんな茶番劇であれ、どんな差別に満ちたものであれ、黒人のパフォーマンスには アメリカそのものとでもいうべきものがありました。 黒人によるエンターテインメントと、それを支配する白人。「ミンストレルショー」はその最初の構造を作り上げました。もっともそういう搾取の関係自体はずっと昔からあったものです。 奴隷制という、非常に侮蔑的な制度のもとでいきていくため、黒人は人間としての尊厳を損なうようなこともせざるを得なかったのです。

【ナレーション】 ミンストレルショーにおける最初の大ヒットは、「ダディー・ライス」という白人が書いた「ジム・クロウ」という出し物でした。やがて、この「ジム・クロウ」という名前は、全ての黒人にとって忘れがたい差別の象徴となっていきます。

1861年1月26日、ルイジアナ州はアメリカ合衆国を離脱。その年の4月にアメリカを二分する「南北戦争」が勃発しました。しかし翌年の4月には、北軍の艦隊がミシシッピ川に侵入し、早くもニューオリンズを降伏に追い込みました。 北軍の勝利によって自由になったニューオーリンズの黒人たちは、新たなエネルギーと想像力を獲得しました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 奴隷制度の廃止がジャズの誕生を可能にしました。 アメリカという国の中心にいながら、虐げられてきた黒人たちが生み出したんです。 黒人は、自分たちが紛れもないアメリカ人であるという自覚を持てずにいました。それでも彼らがアメリカ人という事実には変わりはありません。たとえ社会的に認められていなかったとしてもです。

【ナレーション】 南北戦争終了後の12年間、北軍は南部を占領し、黒人奴隷を解放しました。 人種差別を禁止する法律が制定され、黒人の虐げられた歴史は終わりを告げるかのように見えました。 しかし1877年、北部の共和党と南部の民主党の間に政治的な取引が成立。 占領軍が撤退すると、以前と変わらぬ黒人差別のシステムが復活しました。 小作制度が奴隷制度に変わって黒人を支配し、KKK 団によるリンチも日常茶飯時となりました。 この頃に制定された、黒人差別を認める一連の法律を、「ジムクロウ制度」と呼びます。 「ミンストレルショー」の大ヒット作は、こうして黒人差別の代名詞となっていたのです。しかし、ニューオリンズは最悪の状態をしばらくの間、免れることができました。

1890年代、ジャズの成立に必要不可欠な二つの音楽が、ニューオリンズにもたらされました。 一つは中西部の黒人ピアニストたちが作り出した音楽、 「ラグタイム」RAGTIME。 その心が弾むような軽快な音楽は、黒人霊歌、ミンストレルミュージック、ヨーロッパ民謡、行進曲など様々な音楽をもとにしていました。大きな特徴は、今までにない新鮮で明快な、シンコペーションのリズムでした。 ラグタイムはその後四半世紀にわたって全米で大流行することになります。

同じ頃ニューオーリンズにやってきた、もう一つの音楽それが「ブルース」BLUESでした。 この頃ミシシッピ川のデルタ地帯から、黒人労働者が続々とニューオーリンズに流れ込んできました。 綿花畑やさとうきび畑での労働よりも、ニューオリンズの港湾施設で働く方が収入が良かったためです。 そんな労働者達の引越し荷物の一つに「ブルース」がありました。

【作家:ジェラルド・アーリー】 最悪の状況の中で、自分の存在意義を見つけようとする行為、それが「ブルース」です。 南北戦争以来、黒人は自分たち固有の美的価値を探し求めてきました。 「ミンストレルショー」による歪んだ黒人のイメージ、その屈辱から自分たちを解放してくれる美的価値です。そこに出てきたのは「ブルース」です。 「ブルース」は音楽の形式としては単純なので柔軟性がありいろいろな応用が可能でした。

【ナレーション】 ブルースは、多くの場合三つのコード進行と12小節の繰り返しという単純な形式で成り立っています。しかし、その単純さゆえに演奏者の個性が強く反映され、無限のバリエーションを生み出すことができます。

【作家:ジェラルド・アーリー】 いくらテクニックだけあっても良いブルースは演奏できません。必要なのは、ある種のフィーリングです。そのフィーリングは基本言語のようなもので、それを元に様々な表現が形作られていくんです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ガンボを作るのにルーンがいるように、ブルースをやるにはフィーリングが必要です。どんなにうまいスープがあっても、ルーンがなければガンボは作れません。 ブルースも同じです。

【ナレーション】 バクティスト派の黒人教会で歌われる聖歌、ブルースはその双子の兄弟であるといわれています。 確かにコールアンドレスポンスを始め、それら見られるいくつかの特徴がブルースにも受け継がれています。 しかしブルースは、神を称える歌ではなく、人間の喜怒哀楽を表現する歌です。 あるニューオーリンズのミュージシャンはこう言いました。 片方が神様をお救いくださいと祈れば、もう片方は旦那様お許し下さいと嘆願する。

【作家:アルバート・マリー】 逆説的ですが、ブルースを歌うことはブルース、すなわち悲しみや憂鬱を捨て去る行為なんです。 ブルースの歌詞は大抵物悲しい。でもそれを歌うことで悲しみが晴れる。音楽としてのブルースは、心のブルースを忘れるためにあるんです。

【ナレーション】 ニューオリンズでは、ブルースのメッセージを管楽器で表現する試みが行われるようになりました。

【作家:アルバート・マリー】 当時のミュージシャンが使っていた管楽器は、南北戦争時代の軍隊のお古でした。だから演奏も軍隊風に。 そんな軍隊風な演奏だったのが、教会で歌われる賛美歌を真似て、突然綺麗なメロディーを演奏するようになりました。音の終わりにビブラートをつけてこんな具合に・・・。これでパワーとフィーリングが生まれます。 これはとても重要な出会いです。 今までまったく正反対に位置づけられていたものが、一緒になったんです。 つまり、神聖な教会の音楽と、世俗的なブルースとの融合です。 教会音楽とブルース、ミュージシャンは管楽器を使い、その両方の要素を自在に組み合わせて演奏するようになりました。 天使と悪魔の両方を。

【ナレーション】 こうしてブルースはその後100年間、ジャズをはじめとするあらゆるアメリカ音楽の、豊かな源泉となっていきます。

【作家:アルバート・マリー】 つまるところ、ビッグノイズを最初にやり始めたのは「バディ・ボールデン」さ。そう奴はパワフルなトランペット吹きでテクニックもあった。まぁ元祖と呼んでやってもいいんじゃないかな。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ここで登場したのが「バディ・ボールデン」。黒人でキリスト教徒でした。彼が革新的だったのは、演奏にミュージシャンの強い構成を持ち込み、ボールデンならではのサウンドを聴かせたことです。

【ナレーション】 ジャズを演奏して有名になった最初のミュージシャン、「バディ・ボールデン」は1877年に生まれました。 彼の生涯についてはボロボロの写真が1枚残っているだけで、あまり詳しいことは知られていません。 ボールデンは他のどのミュージシャンよりも、大きく力強い音を出すことができました。またその豊かで斬新な音楽的アイデアは、当時の観客に、驚きと喜びの両方を与えました。

【ナレーション】 1906年頃には、ボールデンは、ニューオーリンズで最も有名な黒人ミュージシャンとなっていました。 彼の練習を聴くため、毎朝子供達が家の前に集まり、彼のことをキング・ボールデンと口々に称えました。 ボールデンの音楽が特にもてはやされた場所は、「ストーリービル」、売春宿が所狭しと立ち並ぶ ニューオーリンズきっての歓楽街でした。 ニューオーリンズはその手の風俗産業が盛んな街でした。 ジャズはありのままの人間を描き、その美しさやみじめさを表現する音楽です。そういうリアルな音楽だから、ジャズは男と女の生々しい姿もとらえます。堕落したものもそのままうけとめます。それが音楽に独特の歯ごたえとフィーリングを与える、うわっつらのきれいごとじゃない、人間の生の姿を表現するんです。

【歴史家:ブルース・ボイド・レイバーン】 ボールデンの音楽的ピークはストーリービルの最盛期と時期を同じくしています。当時は誰もが胸をワクワクさせながらストーリービルにやってきました。そしてボールデンも、あの街の享楽的な雰囲気に、どっぷりと浸かるようになりました。その挙句、彼は酒におぼれ、出番をすっぽかすようになってしまったのです。

【ナレーション】 大量のアルコールは、ボールデンの精神と肉体を蝕んでいきました。彼は頭痛に悩まされ、バンドのメンバーに喧嘩を売り、他のミュージシャンに追い越されるのではないかという不安に怯えるようになりました。 やがて彼は自分の楽器にさえ恐怖感を抱くようになりました。 母親がいくら気を沈めようとしても無駄でした。ボールデンの精神状態はますます荒んだものとなり、暴力を恐れた母親はついに警察を呼ばざるを得ませんでした。 ジャズ界最初のスタープレイヤー、「バディ・ボールデン」がその後人前で演奏することはありませんでした。 彼が、その栄光と挫折に満ちた生涯を閉じた場所は、ルイジアナ州立精神病院でした。

【ナレーション】 「ジェリー・ロール・モートン」 本名フェルディナンドジョーゼフラモスは、1890年ニューオーリンズに生まれました。 本人は、自分の家族は全員フランス生まれだと主張していましたが、母親がハイチ出身の未婚女性である事以外、何もわかっていません。 一時期モートンは、フランスオペラを好む保守的な曽祖母の下で育てられました。 しかし彼が興味を惹かれたのは全く別の世界でした。モートンはストーリービルの売春宿で仕事を見つけ、十代の半ばから、娼婦や客を相手にピアノ演奏を始めたのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 彼は夜遊びの場が大好きで、クラブなどに出入りしていました。いかがわしい連中が好きで、おしゃべりで、ナイフをちらつかせたり、葬式の楽隊で演奏したり、パレードで歌ったり、そんなことが大好きでした。

【ナレーション】 モートンはこの仕事の件は曾祖母に隠し、夜警の仕事をしているのだとごまかしていました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 夜警の仕事というのはあながち嘘じゃありませんよ。何の番をしていたかは別ですけどね。普通の夜警よりは面白いものを見たことでしょう。 のぞき窓を通して娼婦の振り付けのBGMを演奏するんです。ところどころに、ちょっと気の利いたフレーズを加えたりして、すべてが上手くはこべばチップもたんまり。

【ナレーション】 「ラグタイム」「ミンストレルミュージック」「ブルース」を自在に組み合わせ、斬新で複雑な即興演奏をするモートンは、一流のピアノ弾きとなっていました。しかもピアノだけに留まらず、歌や踊りも披露する幅の広い芸人になっていました。 後年彼は、ジャズを作り上げたのは自分だと嘯くようになります。 モートンは決してジャズの創始者ではありません。しかし後にスタンダードナンバーとなる曲をいくつも作曲し、草創期のジャズに合わせに大きな足跡を残しました。またそのようなジャズナンバーを、楽譜の形にしたのも彼が最初でした。 やがてモートンの仕事は曾祖母の知るところとなりました。勘当を受けて家を追い出された彼は、17歳で放浪の旅に出ます。その旅は長いものとなり、彼はアメリカ各地を転々としました。 メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、カンザスシティ、オクラホマシティ、ロサンゼルス。 彼は生きるために様々な仕事をしました。 ヴォードビルショーの芸人、プロの賭け事師、買春宿の客引き、そしてコーラに塩を混ぜたものを、結核の薬と称して売りさばく、詐欺までやってのけました。 それでも彼はピアノを弾き続けました。 モートンの行くところ、常に彼の音楽もついて回ったのです。

【ナレーション】 「バディ・ボールデン」「ジェリー・ロール・モートン」がニューオーリンズでやっていた音楽は、汚い音楽という意味の、「ラッティミュージック」、あるいは粗野で下品な音楽という意味の、「ガットバケットミュージック」という名で呼ばれました。 またその燃えるようにエネルギッシュな性格から、「ホットミュージック」と呼ばれることもありました。 しかしその音楽はいつしか「ジャス」と呼ばれるようになりました。 これは娼婦たちが好んで付けた「ジャスミンの香水」から取られたものだと言われています。 「ジャス」がどうして「ジャズ」という名に変わったのか、その経緯は定かではありません。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 JAZZだとJをとったらASS、つまり尻という意味になるので、SをZに置き換えたんでしょう。 もともとジャズという言葉には、出産、生殖という意味があったんです。創造主という言葉を別にすれば、これほど根源的な言葉はないでしょう。

【作家:ジェラルド・アーリー】 ジャズという言葉が何を意味するかについてはいろいろな説があります。初めてジャズを聴いた者は、そのテンポの速さに驚いたことでしょう。それで速さを上げるという意味のアフリカの言葉から、ジャズと名図けられたという説もあります。 映画もほぼ同じころに誕生しましたが、初期の映画もジャズもテンポの速さが特徴的でした。

【ナレーション】 1910年頃までに色々なバンドがニューオーリンズに誕生しました。 白人バンドで一番有名になったのは「パパジャックレイン」のバンドでした。 ドラマーでありボクサーであり鍛冶屋でもあった レイン は、小学校の時に「リライアンスブラスバンド」の名でバンドを結成し、それが40年以上も続いたのです。 新しいスターが続々と誕生しました。 「フレディケパード」、「キッドオリー」、「ジョーオリバー」 そして半世紀の間共演するミュージシャンを驚愕させ続けた天才、「シドニー・ベシェ」

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 「シドニー・ベシェ」はニューオリンズミュージックの詩人です。 子供の時から難なく楽器を吹きこなす、自他ともに認める天才。 大人よりうまく吹くことができました。 レッスンを受けても先生のほうが驚く始末。 彼の内面に渦巻く炎が、楽器を通して噴き出してくるんです。

【ナレーション】 クレオール系のベシェの家族は、彼がプロのミュージシャンになることに反対でした。 しかし本人は他の道に進むことなど全く考えていなかったようです。 クラリネットを自己流で覚えたシドニーは、わずか10歳にしてフレディケパードのバンドと互角に渡り合う腕前を披露し、大人たちを驚かせました。 シドニーは16歳になると学校を退学し、フルタイムで音楽に没頭しました。そしてミュージシャンとして、ニューオーリンズでも比類なき名声を確立していきます。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ジャズミュージシャンを語るということは、その演奏に反映されたミュージシャンの個性を語るということです。初期にはビブラートを駆使。ときにはもっと攻撃的に。シドニーの出す音はブルースにあふれていました。

【歴史家:ブルース・ボイド・レイバーン】 ミュージシャンが、自分の個性を演奏の前面に押し出すのはかなり珍しいことでした。 当時はミュージシャンよりも、作曲家の意見が尊重されたからです。まだ十代のベシェは、ニューオーリンズのミュージシャン仲間から、本物の天才児と認められるようになりました。 彼はただの古びたクラリネットを使って、信じられないようなすごい音を出すことができたんです。

【ナレーション】 「ジェリー・ロール・モートン」と同じく、「シドニー・ベシェ」もやがて故郷のニューオーリンズを後にしました。そして南部や中西部で、ヴォードビルショーやカーニバルの出し物などに出演するようになりました。 そのようなミュージシャンの移動に伴って、ジャズもニューオーリンズという枠を超え、アメリカ全土へと広がっていったのです。 1901年に「ビクタートーキングマシーンカンパニー」が、最初の蓄音機を出して以来、レコード産業は瞬く間にビッグビジネスへと成長していきました。 当時、最大のヒットを記録したのはオペラ歌手のエンリコカルーソや、ジョンフィリップスーザ率いる吹奏楽団のレコードでした。 まだこの頃、ジャズはライブで聴いて楽しむものと思われていたため、ジャズをレコーディングしようと考える者はいませんでした。 1917年2月26日ニューヨークのスタジオで、「史上初のジャズレコード」が吹き込まれました。 演奏者は「オリジナルディキシーランドジャズバンド」というバンドでした。 「オリジナルディキシーランドジャズバンド」はイタリア系のコルネットプレイヤー、「ニックラロッカ」をリーダーとする白人の5人組でした。靴職人の息子だったラロッカは、働き者で型破りで野心に溢れた人物でした。 ラロッカの父親はジャズ嫌いだったため、彼は屋外にあるトイレに隠れ、独学でコルネットの演奏法を覚えました。

【ナレーション】 彼らがスタジオで演奏したのは、ニューオリンズではよく知られた二つの曲、「デキシーランドジャズバンドワンステップ」と、「リヴァリーストラブルブルース」でした。 その演奏は生き生きとしたものでしたが、録音技師からはレコードの片面に入るようもっと早く演奏しろと注文をつけられました。 1917年3月7日に発売されたレコードは大ヒットを記録しました。ラロッカが馬のいななきのようにコルネット吹き、ラリーシールズのクラリネットが、時を告げるにわ鶏のような音を出すという、コメディタッチの演奏が受けたのです。 ほとんどのアメリカ人はこのレコードを通じて、初めてジャズという音楽に接したのです。 1枚75セントのレコードは、25万枚以上のヒットとなりレコード売り上げの新記録を達成しました。スーザよりもカルーソよりも売れたのです。 その後「オリジナルディキシーランドジャズバンド」は、ジャズの創始者という看板を掲げてイギリスツアーを行い、センセーションを巻き起こしました。しかしバンドは徐々に崩壊への道を歩んでいきました。 1918年トロンボーンのエディエドワーズが陸軍に徴兵。 1919年ピアニストのヘンリーラガスがインフルエンザで死亡。 1921年ツアーに疲れたクラリネットのラリーシールズが脱退。 そして1925年リーダーのニックラロッカも神経衰弱に陥り、ツアーを断念。 ミュージシャンを止めた彼は、ニューオーリンズに戻って建築関係の仕事を始めました。 ジャズの歴史に1ページを刻んだニックラロッカ。しかし彼はジャズは白人の手によって作られたものだと主張し、黒人の果たした役割を死ぬまで認めようとしませんでした。 物書きの多くは、ジャズは黒人の音楽でアフリカのジャングルから来たものだと言っている。 私に言わせればあのリズム、あの音楽は白人のもので、黒人がそれを真似したんだ。 そもそも黒人が、白人に匹敵する演奏をしたことなど、これまでに一度たりともない。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 アメリカの歴史を神話に例えれば、人種差別はその重要なエピソードです。人はこの世界をよきものにすべきなのに、それと正反対のことばかりしている。人種問題に向き合うことは、アメリカ人とは何かを問うことであり、解決することが極めて困難です。それでも人種問題に取り組み、なんだかの成果を上げたい、人間としての勇気を示したいと思うのなら、どれだけ誠実な態度で取り組むか、どこまで毅然とした姿勢を保てるかが問われるでしょう。 ジャズがアメリカ神話の核心にある以上、人種問題を避けて通ることはできません。避ければかえって深みにハマります。 アメリカの社会問題は人種だけではありません。 しかし最大の問題は何かと言えば人種です。