JAZZの歴史|第2回

JAZZ|第02回|天才の出現 デュークとサッチモ

YouTubeよりテキスト引用
https://youtu.be/yQdWI3AesOU

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
「ルイ・アームストロング」の音楽は、人間の最も深いところにある感情を、究極の洗練された音によって抑えます。そのような演奏家は歴史を見渡してもほとんど存在しません。
彼は神に選ばれた者として、この世のあらゆる人々にジャズのフィーリング、メッセージ、アイデンティティを伝えました。彼こそジャズの申し子です。

【ナレーション】
ジャズのレコードがはじめて世に送り出されたのは1917年、20世紀が未だ二十歳を迎えないころでした。当時世界は、先の読めない変革の嵐に晒されていました。
第一次世界対戦の勃発は、大規模な殺戮戦争の始まりでした。
飛行機の発明によって、人は空をも征服し始めます。
エックス線写真は、人体の内側の仕組みを誰の目にも明らかにしました。人間の心もまた科学の対象となります。
「ジークムントフロイト」は、精神分析という手法によって。人間の心理の深い部分に迫りました 。
芸術の世界では「パブロピカソ」が、立体を多角的な視点から描く手法を編み出しました。
そして「アルバート・アインシュタイン」は時間と空間の相対性理論を提唱しました。
ジャズは、まさにそのような近代社会を彩る「サウンドトラック」でした。
当時のジャズは、勢いに任せた即興的なアンサンブルが主体でした。楽器ごとにソロを展開する手法には、まだ誰も気付いてはいませんでした。
しかし、第1次世界対戦が終わる頃、ジャズは本格的な発展期を迎え、そのスタイルを変えていきます。
ジャズはその舞台を、アメリカの二つの大都市に移していきます。「シカゴ」では南部から大挙してやってきた黒人たちの中で、その音楽が磨き抜かれました。
「ニューヨーク」では「タイムズスクエア」と「ハーレム」という全く対照的な二つの地域で、個性豊かなミュージシャン達がジャズの新たな可能性を探求し続けました 。
そうしたミュージシャンの中にはワシントンDCの中流家庭出身の異色のジャズピアニストがいました。
「エドワード・ケネディ・エリントン」は早くから作曲も手がける溢れる才能によってジャズの世界に新風を吹き込みます。
そして、ジャズの発祥地ニューオリンズでは、騒々しく暴力に満ちた空気の中から、一人の天才が現れました。当時、街の安酒場に大人たちに混じってラッパを吹く、十代の少年がいました 。
少年の名は「ルイ・アームストロング」
その類まれな才能を人は後に神からの贈り物と称賛しました。

【評論家:フィービー・ジェイコブス】
「ルイ・アームストロング」は人の姿をした神様です。
私は今も本気でそう思います。おそらく神様が人々を幸せにするために彼をこの世に遣わしたんだって。彼の音楽はただ美しいだけではなく人を癒す特別な力を持っています。一種のセラピーだと思います。
そこには何とも言えない、素晴らしい陶酔感がもたらされ、愛や幸福感、想像力が掻き立てられます。
ルイは音楽で人を癒すという聖なる使命を授かり、その仕事に一生の全てを捧げたんです。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
「ルイ・アームストロング」はいわばアメリカにおけるバッハであり、ダンテであり、シェイクスピアです。彼はジャズの創始者ではありませんが、極めて重要な節目を築きました。
彼が活躍したのは、ジャズが芸術にまで高められていく時期でした。彼はそれまでの音楽を吸収し、体系化し新天地を切り開いたんです。

【ナレーション】
「ルイ・アームストロング」、愛称サッチモは1901年8月8日ニューオーリンズに生まれました。日雇いの現場で働く父親は、家にはほとんどよりつきませんでした。母親は16歳でルイを産み貧しさゆえに娼婦として働いたこともありました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ルイアームストロングは食べ物が何もない時のことや、貧乏のどん底の暮らしについてよく話していました。彼はいつも腹を空かせていたそうです 。しょっちゅう喧嘩が起こり、ナイフやかみそり拳銃といったものが平気で飛び交うような世界でした。その街で彼は生きることの滑稽さ、美しさ、醜さ、全てを理解したんです。

【ナレーション】
彼は7歳から働きに出て、ロシア系ユダヤ人のカーノフスキー一家の下で石炭を運ぶ仕事にありつきました。荷馬車で石炭を運ぶ際、彼はブリキのラッパを吹いてお客に荷が届いたことを知らせました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
小さな子供は大人社会のゆがみを感覚的にかぎつけます。そしてだんだんと自分たちが肌の色のせいで差別されてることに気付くんです。黒人達がこき使われ、大人であってもボーイと呼ばれて蔑まれていました。
そのような屈辱的な環境の中で、彼は思いがけず白人でありながら自分に優しくしてくれる人と出会いました。
彼を家に呼び止め何かと親切にし、お腹が減ってないかと聞いてくれるような人たちです
カーノフスキー家と接して、彼は初めて人間の揺動を実感したんです。

【ナレーション】
夫人は毎晩仕事を終えたルイに夕食を食べていくように言いました。彼はその親切を生涯忘れませんでした。そしてカーノフスキー家で聞いた子守唄は、彼の大事な一曲となりました。
ある日ルイは質屋で使い古しの小さなラッパコルネットを見つけ、前払いしてもらった給料で手に入れました。
いたずらに吹くうちに彼は 、「Home Sweet Home」 という曲なら簡単だと気付きます。それが彼と「ブルース」との出会いでした。
ルイは自然とジャズに親しみました。
「ザ・キッドーリーバンド」、「マット・ケアリー」、「バンク・ジョンソン」、「フレディ・ケパード」、そして「シドニー・ベシェ」、中でも特に大きな影響を受けたのは、コルネット奏者のキング、「ジョー・オリバー」のバンドでした。
ジョーオリバーは鉄の男というあだ名を持つ気の荒い親分肌の人間でした。彼はトロンボーンからコルネット奏者に転向し自分のバンドを率いました。「ピート・ララ」という荒くれ物の集う酒場が彼らの演奏場所でした。
少年のルイは石炭を届けに酒場へ出向くたびに、店の近くでオリバーの演奏に聞き耳を立て、なかなか帰ろうとしませんでした。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
オリバーの吹き方は独特で、こんな感じの音でした。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
ジョンオリバーは体格もよく、ひと際目立ちました。演奏者としてもバンドリーダーとしても一級でした。そのオリバーが少年のルイを気に入り、自分のトランペットにさわることを許しました。
これは大変な名誉でした。

【ナレーション】
僕は、「ジョン・オリバー」が大好きだった。「ルイ・アームストロング」は後々そう語っています。
オリバーは忙しい仕事の合間を縫って彼に演奏のコツを教えてくれたりもしました。

【ルイ・アームストロング】
ジョー・オリバーと道ででくわしたときは、教わるチャンスなんだ!「ここはどうやるの?」って聞くと必ず立ち止まって教えてくれた。ほかの連中とは大違い。本当に彼のことが大好きだった。

【ナレーション】
1918年 アメリカが第1次世界大戦に参戦したこの年、オリバーは大都会シカゴへと向かい、彼の後任としてアームストロングをバンドに推薦しました。
まだ十代のコルネット奏者、「ルイ・アームストロング」は、まもなくよその町からもお呼びがかかるほどの評判になりました 。しかし、既に所帯ももっていた彼は、多くの仲間のように街から出て失敗することを恐れました。
オリバーに呼ばれない限り、町を出る気はないと彼は語りました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
1919年の禁酒法はアメリカ史上最低の法律でしたが、ジャズにとっては有難い存在でした。
普段酒場に行かない人まで、盛り場に足を運ぶようになり、何万という潜りの酒場が誕生しました。ニューヨークのマンハッタンには一時、5000もの店が乱立しました。
店同士の競争は激しく、客集めるには音楽をというわけで、ジャズミュージシャンは引っ張りだこでした。
禁酒法への反発から、人々の道徳観はかえって緩みました。女性が堂々と酒を飲むようになったのも、その表れでしょう。
そのころジャズエイジという言葉が生まれ定着しました。それは禁酒法という、到底守れっこない法律のせいで、規律そのものが緩んだ時代の雰囲気を言い当てています。

【ナレーション】
首都ワシントン。
ジャズの本場から離れたこの街にも、才能の輝きを放つ若きミュージシャンがいました。「エドワード・ケネディ・エリントン」です。

【エドワード・ケネディ・エリントン】
僕の人生はシンプルなんだ。昔々、美しい女性とハンサムな紳士が出会い、恋に落ちて結婚し、かわいい息子が生まれた。息子は7−8歳まで両親の腕の中で守られていた。ある日、少年はひとりドアを出て走り出した。芝生を横切り、道を渡ると誰かが呼んだ。「エドワード、おいで!」これ僕のことだよ。また誰かが言った。「いいぞ!その道を行け!そのまま突っ走り、今日まで来たっていうわけ。

【ナレーション】
1899年4月29日「エドワード・ケネディ・エリントン」は、首都ワシントンの北西部、暴力や盛り場とは縁のない中流家庭が並ぶ黒人地区に生まれました。
後にジャズピアニストとして、また作曲家として天才ぶりを発揮する「エリントン」その育った環境は、ニューオリンズのルイアームストロングとは対照的でした。
父親はホワイトハウスにも務めたことのある執事でした。
彼の家庭は経済的には裕福ではないものの、常に上品で礼儀正しい雰囲気に満ちていました。
母親は息子の一番の理解者でした。毎週日曜には親子で教会に行き、ピアノのレッスンにも付き添いました。エドワードの特別な才能は母親の深い愛の下で芽吹いたのです。
14歳になるとエリントンは、中流家庭の上品な遊びには飽き足らず、親に内緒で繁華街に繰り出すようになりました。中でもビリヤード場は、親しい仲間のたまり場でした 。
劇場にも出入りしました。
そのうちに自然と、当時はやりのジャズが耳に入るようになります。
ジャズピアニストたちの即興的な演奏に、彼は両耳をそばだてて、何時間でも聞き入っていました。エリントン自身もまた女の子の気を引くために、軽い気持ちでピアノの前に座りました。しかしすぐに彼の才能が鍵盤からほと走り始めます。
エリントンの優雅な着こなしをからかって、友人達は彼を デューク「公爵」と呼び始めました。
彼は作曲も始めます。最初に書いたのは「ソーダファウンテンラグ」という作品でした。
まもなく彼は学校を中退し、「ザ・デュークスセレネイダーズ」というンドを結成しました。
気位の高い彼は、演奏会場では必ず仲間にドアを開けさせ、「道をあけろデューク様のお通りだと」告げさせました。その上品な演奏スタイルが気に入られて、エリントンのバンドは大使館やワシントンの白人地区で行われるパーティーに、頻繁に雇われるようになりました。
1923年1月、すでに結婚して息子も誕生したエリントンは、ニューオリンズからやってきた名高いミュージシャン、「シドニー・ベシェ」を聞くためにハワード劇場にでかけました。
エリントンはその夜のことを生涯忘れられませんでした。ベシェの演奏は彼の魂そのものであり、内側からほとばしっていました。
ニューオリンズのサウンドに、エリントンは全身を揺さぶられる思いでした。その出会いは彼に転機をもたらすのです。
ジャズエイジが熱狂の度を増す1920年代、それまで着々とキャリアを積み自信を強めてきたエリントンは、一つの壁に突き当たりました。彼はもはやワシントンの白人に気にいられるだけでは満足できませんでした。さらなる高みを目指すには、新しい挑戦の場が必要でした。

【ナレーション】
1922年8月、ニューオリンズ発シカゴ行きの列車に乗り込む大群の中に、21歳の「ルイ・アームストロング」の姿がありました。彼は憧れのミュージシャン、ジョーオリバーに誘われ妻と別れて旅立ったのです。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
オリバーの一言は、彼にとって何より特別でした。
シカゴのリンカーンガーデンズで一緒にやろう、という電報見た途端、彼は母親が作ったサンドイッチを手にさっさとでかけました。

【ナレーション】
アームストロングの手荷物は、コルネットのケースとおんぼろの旅行カバンが一つ。その中にはツギをあてたタキシードが一着入っていました。
母親は、遠くへ行く息子にシカゴは寒いから、長い下着を着るようにと告げました。
南部の町からシカゴへ。毎日のように黒人たちで満員の列車が向かっていました。その多くは人種差別と極貧の生活を逃れ、裸同然で新天地に渡る人たちでした。第1次世界対戦が始まって以来、工業都市シカゴは労働者を求めていました。北へ向かう人口の大移動、その波の中にアームストロングも加わったのです。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
列車はシカゴにつきます。駅に降り立った彼を見て、誰もがくすっと笑ったでしょう。彼が着ていたのはだぶだぶの黒いコートに黒いスーツ、洋服も髪型もまるで冴えない姿でした。その彼が間もなく町の王者になるなんて、誰が思ったでしょう。

【ナレーション】
アームストロングは、オリバーのいるクレオールジャズバンドに早速加わりました。
オリバーとアームストロング、二本のコルネットは完璧なデュエットを奏でました。
アームストロングは相手が吹こうとするメロディーを本能的にとらえ、見事にこたえたのです。そのエキサイティングな演奏はシカゴの聴衆を唸らせました。

【ルイ・アームストロング】
ジョー・オリバーと新入りのコルネット奏者は息が合っているって、評判になったんだ。僕はオリバーの演奏は聴き込んでたからね。最初の音を聴けば、展開が読める。デュエットできたんだ。他の奏者もまねしようとしたが、お手上げだったよ。彼らは楽譜がないと駄目なんだ。


【ナレーション】
二人のセッションは町中の噂となり、リンカーンガーデンズには、程なく白人の聴衆も訪れるようになりました。
1923年4月、波に乗るクレオールジャズバンドは、レコーディングのためにシカゴからインディアナ州リッチモンドへと向かいました。この時始めて「ルイ・アームストロング」の演奏がレコードの溝に刻まれました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
通常のレコーディングではトランペットの周りにバンドを配置して、演奏を収録します。ところがアームストロングの音は迫力がありすぎるんです。ほかの楽器と音のバランスを取るために彼はバンドの数メートル後ろ、ドアの外の廊下に立って演奏しました。
それがこの「サイムズブルース」というレコードです。間違いなくジャズの歴史に残る一枚です。
アームストロングは、曲の途中でソロのパートを割り当てられていました。もちろんレコーディングの場では、特に即興を求められたわけでありませんでした。
しかし彼は堂々たる即興をやってのけ、華麗な力強いサウンドで曲を彩りました。
これまでのアンサンブルにはなかった、刺激的で力強い響き、そこにはジャズの未来が暗示されていました。
そのほとばしるような閃きは、彼自身にも抑えられない、聖なるサウンドともいうべきです。
このレコーディングを2年後には、彼はソロプレイヤーとしても押されもせぬ存在となり、芸術としてのジャズを集大成していきます。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】
ミュージシャンはよく音で物語を奏でるのだと表現します。自分だけの世界を彼らは音で語りかけるんです。
ルイは絶妙な語り手でした。
彼の音には聞き手を引き込み、陶酔の世界に誘うようなストーリーがあります。そこに彼の本領、天から与えられた才能を感じます。

【ナレーション】
ニューヨーク。
ジャズエイジのエネルギーは、この大都市にも充満し、ミュージシャン達は競い合いながら成長していました。
ハーレムのピアニストたちは「ストライド」という左手で激しくコードを操る即興的な演奏を好みました。
人によってはその演奏オーケストラ風ピアノと呼びました。
豊かで広がりのあるコードを右手のメロディーに対応して素早く展開させるのです 。
「ストライド奏法」は一種の名人芸でした。プレイヤー達は互いの演奏スタイルにあだ名をつけ好戦的な態度で腕を競っていました。
「カッティングコンテスト」と名付けられた協議会風の催しやが当時頻繁に行われていました。
1923年の初め、デュークと言われたピアニスト、「エドワード・ケネディ・エリントン」は二人の仲間と共に、ニューヨークのハーレムに乗り込みました。エリントンは首都ワシントンでの安定した成功を捨て、この街の喧騒の中で自分の実力を試そうとしたのです。エリントンにとって、ハーレム当時世界で一番輝いて見える場所でした。
彼のニューヨークでの初仕事は、ウィルヴァースウェットマンというボードビルミュージシャンの伴奏でした。スウェットマンはバンドのメンバーが白人風に見えるよう顔に白塗りを強制しました。
スウェットマンが町を去ったあと、エリントンと友人二人は食い繋ぐために走り回り、時には賭博場で、危ない橋も渡らなければなりませんでした。
しばらくの間エリントンに回ってくるのは小さな仕事ばかりでした。彼は空いた時間にはストライドピアノの演奏を聴きに行き、自分のチャンスを待ちました。

【ナレーション】
半年あまりたった1923年秋、エリントンと二人の仲間はタイムズスクエアのはずれにあるクラブ、「ハリウッドイン」で演奏することになりました。
彼らはそのころ小編成のダンスミュージックバンド、「ワシントニアンズ」の一員になっていました。
リーダーは興行主でもあるバンジョープレーヤー、「エルマー・スノーデン」でした。しかしスノーデンはメンバーの給料をピンハネしていることが発覚し、楽団を追い出されます。新しいリーダーの座にはエリントンがつきました。
僕らが音楽に新しい色や形を取りこんだのは、ハリウッドインのお陰だった。エリントンは後にそう語っています。
彼はこの時期貪欲に色々なものを吸収しました。都会的な洗練を感じさせる「ストライド奏法」、シドニー・ベシェによって出会ったニューオリンズのサウンド、こうしたものが全て彼の音楽に吸収され、やがて独自の世界を築く「礎」となるのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
エリントンたちの演奏は、最初は社交界用の響きでした。上品なビブラートです。そこへシカゴのオリバーたちの音が入ってきました。エリントンはよし、これで行こうと決めました。つまりリズムとビートが命の演奏スタイルです

【ナレーション】
1924年になるとエリントンは、レコーディングや自分の作品を出版社に売り込むチャンスを得ます。
成功の足がかりが見えてきました 。
しかし彼はなお、自分の音楽のスタイルに満足できず、この時期、友人であるクラシック出身の音楽家、「ウィルマリオンクック」に相談を持ちかけています。
二人はセントラルパークを走るタクシーの中で話し合いました。
音楽学校で正規の教育を受けてはと勧めるクックに、エリントンは自分にはその時間がおしい、自分には学校には習いたいような音楽はないと答えました。その時クックは友にこう助言しました。
ならば自力でいい、まずは論理的な方法を極めるんだ。そしてそこから外れろ。既存のものを突破した時に自分の道が開ける。自分以外の誰をも目指すな。
それはエリントンが生涯座右の銘とする言葉となりました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
エリントンが目指したのは、自己の内なる可能性を形にすることでした。
誰にも似ていない自分だけのスタイルを求めたのです。

【ナレーション】
白人のなかにもジャズの世界に飛び込んでくる逸材がいました。
「ポール・ホワイトマン」、出身はコロラド州それまでの職業はオーケストラのバイオリン奏者でした。

【ライター:ジェームズ・マー】
突然彼はジャズの魅力に目覚め打ちのめされたんです。たまたま聞いたジャズバンドの演奏に彼は猛烈なパワーと湧き上がる楽しさ、憂鬱を洗い流し、人を幸せにする力を感じました。
そこで考えたんです。自分の音楽家としてのキャリアを活かして、ジャズをオーケストラ用にアレンジしたらどうか

【ナレーション】
ホワイトマンはオーケストラによるジャズ演奏がかならず当たると確信しました。
ジャズのリズムとハーモニーに、クラシック音楽のような正確さと予測可能性を盛り込むこと。
つまり、ジャズを上品なレディーに仕立てることが彼の狙いでした 。
1920年彼が放った大ヒット曲、「ウィスパリング」このレコードは250万枚も売れました。
それはアームストロングとオリバーの出した「チャイムズブルース」の250倍以上の売れ行きでした。
ポールホワイトマンは、シンフォニックジャズという新しいジャンルを確立し、以後多くの演奏家がその影響を受けます 。アメリカの社交ダンス界もシンフォニックジャズに夢中となりました。

【ナレーション】
1924年2月12日、ニューヨークのエオリアンホールで開かれた、ポールホワイトマン楽団の演奏会には、寒さの中大勢の聴衆が詰めかけました。
その日の演奏会は現代音楽の実験と銘打たれ、ある若いユダヤ人作曲家が新作を披露することになっていました。
「ジョージ・ガーシュイン」、彼もまたニューヨークのハーレムで黒人達のピアノに親しみ、ジャズの洗礼を受けた一人でした。
ジャズのフィーリングに満ちた新しいクラシック、「ラプソディ・イン・ブルー」はアメリカの音楽史を代表する1曲となりました 。
ホワイトマン楽団の演奏会は大成功を収めました。シンフォニックジャズにジャズ本来の即興的な要素は全くありません。それでも人々は「ポール・ホワイトマン」を、キングオブジャズという称号で呼ぶようになりました

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】
彼がジャズの王者だなんて黒人たちは猛反発しました。しかもホワイトマンは白人という意味でしょう、余りにもあからさまです。ホワイトマン自身は悪くないとしてもね。

【ナレーション】
ホワイトマンが名声を得たのと同じ年、タイムズスクエアにある白人専用ダンスホール、「ローズランド」で「フレッチャー・ヘンダーソン」という若い黒人がバンドリーダーとしてデビューしました。
ピアノ教師と校長を両親に持つヘンダーソンは、コロンビア大学の大学院へ化学を学びに来ていた相当なインテリでした。ところが貯金が底をついたため音楽の世界に足を踏み入れ、そこで当時のジャズ旋風に巻き込まれました。
彼の洗練されたダンス音楽は、ローズランドの白人客たちを虜にしました。
ヘンダーソンの名はニューヨークのバンドの世界で一躍有名になります。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
ニューヨークのバンド界には二人のキングが現れ、もてはやされていました。
白人の王ポールホワイトマンと黒人の王のフレッチャーヘンダーソンです。
二人は仲が良くお互いの曲を編曲しあうほどでした。

【ナレーション】
ある晩ホワイトマンはヘンダーソンの演奏を聴いてこう漏らしました。
もしフレッチャーが白人だったら億万長者になれただろう。しかしヘンダーソンは上品さが売りの白人向け音楽にはすぐに飽き足らなくなりました。かれは黒人としての音楽のルーツに目覚め、自分の演奏スタイルをよりスリリングで、内側から訴えかけるものにしたいと思ったのです。
ヘンダーソンは彼をサポートしてくれる演奏家を求めました。そのころ彼の周りではこんな噂が広まっていました。
シカゴのジョー・オリバーのバンドに一人の天才トランペッターがいる。
天才ルイ・アームストロングの名声はシカゴだけに留まるものではありませんでした。
彼がニューヨークに来た時、ジャズは永遠に生まれ変わることになります。

【ナレーション】
1924年、アームストロングはオリバーのバンドを離れソロプレイヤーとして独立します。そしてフレッチャーヘンダーソンの要請を受けて、馴染みのない大都市、ニューヨークへとやってきました 。
ニューヨークの垢ぬけたミュージシャンに比べアームストロングの風貌は、地味で野暮ったく見えました。しかし演奏が始まった瞬間、印象はガラリと変わりました。アームストロングはその音色で回りを圧倒し、オーラを放ったのです。

【サックスプレーヤー:ベニー・ウォーターズ】
私は1924年、ニューヨークでルイの演奏をはじめて生で聴きました。それは特に彼を目立たせるような曲ではありませんでした。曲の半ばまで彼はじっと座って、自分の出番を待っていました。やがて彼が立ち上がって猛然と吹き始めるや、観客は熱狂しました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
アームストロングは楽団に変革を起こしたばかりか、ニューヨークのジャズ界、さらにはポピュラー音楽の世界さえ変えていったんです。彼がもたらしたもの、それはまず圧倒的なリズムの高揚感でした。
彼はやたらと飾ることを嫌い、無駄な音を一切そぎ落としました。そしてそこにブルースの響きを盛り込んだのです。
アームストロングはアメリカの黒人が生んだブルースの魅力を余すところなく伝えました。
彼の演奏に触発されて、誰もがブルースに秘められた可能性に目覚めました。ニューヨークで活動していたデュークエリントンもその一人でした。彼はアームストロングを聴くことで、自分に足りなかった何かを掴んだのです。

【ナレーション】
アームストロングの偉大な音楽、そのジャズの特徴は「スイング」という言葉によって象徴されます。

【ベーシスト:アーベル・ショー】
「スイング」とは、最適の音を最適の瞬間に奏でることです。はやくても遅くてもダメです。
ジャズはリズムで勝負する音楽、つまりタイミングと躍動感が命なんです。
例えばこんなメロディ「普通はこう」「スイングすると」
こんな風に決して立ち止まらずに無限に続けていくんです。
それは心臓の鼓動のように会場の全てを支配し、聴衆の体を自然と揺らします。それが「スイング」というジャズのユニークで偉大な特徴です。

【ナレーション】
「スイング」こそルイ・アームストロングが伝えたジャズの神髄でした。

【歴史家:フィル・シャープ】
1924年9月、ルイ・アームストロングがニューヨークにやってきた瞬間から、ジャズの歴史は次のステップへ踏み出しました。あらたなキーワードは「スイング」です。
アームストロングは黒人の若者たちが集う店でも演奏し、一緒にセッションしたミュージシャンに多大な影響を与えました。中には元々バイオリニストだったのに、アームストロングと一緒に吹きたいからと言って、アルトサックスに転向したプレイヤーもいたくらいです。
さらに彼はフリーのソロプレイヤーとして多くのレコーディングに参加し、「ベーシー・スミス」、「マー・レーニ」、「シドニー・ベシェ」等と一緒に演奏しました。
レコードに吹き込まれた音楽は、ダンスホールに足を運べない聴衆の耳にも届きました。
彼のジャズに世界が体を揺らし始めました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
「ルイ・アームストロング」は新しいスタイルをうちたてました。ソロによるジャズです。
彼はジャズにブルースを融合させ、トランペットの可能性を広げました。彼が作り出したメロディとリズムから、後のプレーヤーはどれほど多くを学んだかしれません 。
アームストロングを語るとき、人は天才という言葉の本質に突き当たります。その音は、それまでの音楽の通年打ち破りました。
彼の刻むリズム、奏でるメロディーは、トランペットという楽器を通して語られた、彼の内なる声でした。
そのパワーとスピリットは、ジャズを天使すら涙する真の芸術まで高めたのです。