JAZZの歴史|第2回

JAZZ|第02回|天才の出現 デュークとサッチモ

YouTubeよりテキスト引用
https://youtu.be/yQdWI3AesOU
【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ルイアームストロングの音楽は人間の最も深いところにある感情を究極の洗練された音によって抑えます。
そのような演奏家は歴史を見渡してもほとんど存在しません
彼は神に選ばれた者として、この世のあらゆる人々にジャズのフィーリング、
メッセージ、アイデンティティを伝えました。
彼こそジャズの申し子です。

【ナレーション】
ジャズのレコードがはじめて世に送り出されたのは1917年、
20世紀が未だ二十歳を迎えないころでした。
当時世界は先の読めない変革の嵐に晒されていました
第一次世界対戦の勃発は大規模な殺戮戦争の始まりでした
飛行機の発明によって人は空をも征服し始めます
エックス線写真は人体の内側の仕組みを誰の目にも明らかにしました
人間の心もまた科学の対象となります
ジークムントフロイトは精神分析という手法によって人間の心理の深い部分に迫りました
芸術の世界ではパブロピカソが立体を多角的な視点から描く手法を編み出しました
そしてアルバートアインシュタインは時間と空間の相対性理論を提唱しました
ジャズはまさにそのような近代社会を彩るサウンドトラックでした
当時のジャズは勢いに任せた即興的なアンサンブルが主体でした
楽器ごとにソロを展開する手法にはまだ誰も気付いてはいませんでした
しかし第1次世界対戦が終わる頃に東本格的な発展期を迎えそのスタイルを変えていきます
ジャズはその舞台をアメリカの大都市に移していきます
シカゴでは南部から大挙してやってきた黒人たちの中でその音楽が磨き抜かれました
ニューヨークタイムズスクエアとハーレムという全く対照的な二つの地域で個性豊かなミュージシャン達がジャズの新たな可能性を探求し続けました
そうしたミュージシャンの中にはワシントンDCの中流家庭出身の異色のジャズピアニストがいましたエドワードケネディエリントンは早くから作曲も手がける溢れる才能によってジャズの世界に新風を吹き込みます
そしてジャズの発祥地ニューオリンズでは騒々しく暴力に満ちた空気の中から一人の天才が現れました当時町野安酒場に大人たちに混じってラッパを吹く十代の少年がいました
少年の名はルイアームストロングその類まれな才能を人は後に神からの贈り物と称賛しました

【評論家:フィービー・ジェイコブス】
ルイアームストロングは人の姿をした神様です
私は今も本気でそう思います。
おそらく神様が人々を幸せにするために彼をこの世に遣わしたんだって、
彼の音楽はただ美しいだけではなく人を癒す特別な力を持っています。
一種のセラピーだと思います。
そこには何とも言えない素晴らしい陶酔感がもたらされ愛や幸福感、想像力が掻き立てられます
ルイは音楽で人を癒すという聖なる使命を授かり、その仕事に一生の全てを捧げたんです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
ルイアームストロングはいわばアメリカにおけるバッハであり、ダンテであり、シェイクスピアです。
彼はジャズの創始者ではありませんが、極めて重要な節目を築きました。
彼が活躍したのはジャズが芸術にまで高められていく時期でした。
彼はそれまでの音楽を吸収し、体系化し新天地を切り開いたんです。

【ナレーション】
ルイアームストロング、愛称サッチモは1901年8月8日ニューオーリンズに生まれました
日雇いの現場で働く父親は家にはほとんどよりつきませんでした
母親は16歳でルイを産み貧しさゆえに娼婦として働いたこともありました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ルイアームストロングは食べ物が何もない時のことや
貧乏のどん底の暮らしについてよく話していました
彼はいつも腹を空かせていたそうです
しょっちゅう喧嘩が起こりナイフやかみそり拳銃といったものが平気で飛び交うような世界でした
その街で彼は生きることの滑稽さ美しさ醜さ全てを理解したんです

【ナレーション】
彼は7歳から働きに出て、ロシア系ユダヤ人のカーノフスキー一家の下で石炭を運ぶ仕事にありつきました
荷馬車で石炭を運ぶ際、彼はブリキのラッパを吹いてお客に荷が届いたことを知らせました。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
小さな子供は大人社会のゆがみを感覚的にかぎつけます。
そしてだんだんと自分たちが肌の色のせいで差別されてることに気付くんです
黒人達がこき使われ、大人であってもボーイと呼ばれて蔑まれていました
そのような屈辱的な環境の中で、彼は思いがけず白人でありながら自分に優しくしてくれる人と出会いました。
彼を家に呼び止め何かと親切にし、お腹が減ってないかと聞いてくれるような人たちです
カーノフスキー家と接して彼は初めて人間の揺動を実感したんです。

【ナレーション】
夫人は毎晩仕事を終えたルイに夕食を食べていくように言いました
彼はその親切を生涯忘れませんでした
そしてカーノフスキー家で聞いた子守唄は彼の大事な一曲となりました
ある日ルイは質屋で使い古しの小さなラッパコルネットを見つけ前払いしてもらった給料で手に入れました
いたずらに吹くうちに彼は Home Sweet Home という曲なら簡単だと気付きます
それが彼とブルースとの出会いでした
ルイは自然とジャズに親しみました
ザキッドーリーバンド、マットケアリー、バンクジョンソン、フレディケパード、
そしてシドニーベシェ、中でも特に大きな影響を受けたのは、
コルネット奏者のキング、ジョーオリバーのバンドでした
ジョーオリバーは鉄の男というあだ名を持つ気の荒い親分肌の人間でした
彼はトロンボーンからコルネット奏者に転向し自分のバンドを率いました。
ピートララという荒くれ物の集う酒場が彼らの演奏場所でした。
少年のルイは石炭を届けに酒場へ出向くたびに、店の近くでオリバーの演奏に聞き耳を立てなかなか帰ろうとしませんでした

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
オリバーの吹き方は独特でこんな感じの音でした

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
ジョンオリバーは体格もよくひと際目立ちました。
演奏者としてもバンドリーダーとしても一級でした
そのオリバーが少年のルイを気に入り、自分のトランペットにさわることを許しました
これは大変な名誉でした

【ナレーション】
僕はジョンオリバーが大好きだったルイアームストロングは後々そう語っています
オリバーは忙しい仕事の合間を縫って彼に演奏のコツを教えてくれたりもしました
1918年 アメリカが第1次世界大戦に参戦したこの年
オリバーは大都会シカゴへと向かい、彼の後任としてアームストロングをバンドに推薦しました
まだ十代のコルネット奏者ルイアームストロングはまもなくよその町からもお呼びがかかるほどの評判になりました
しかし既に所帯ももっていた彼は多くの仲間のように街から出て失敗することを恐れました
オリバーに呼ばれない限り町を出る気はないと彼は語りました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
1919年の禁酒法はアメリカ史上最低の法律でしたが
ジャズにとっては有難い存在でした
普段酒場に行かない人まで酒場に足を運ぶようになり何万という潜りの酒場が誕生しました
ニューヨークのマンハッタンには一時5千もの店が乱立しました
店同士の競争は激しくを客集めるには音楽をというわけでジャズミュージシャンは引っ張りだこでした。
禁酒法への反発から人々の道徳観はかえって緩みました
女性が堂々と酒を飲むようになったのもその表れでしょう
其のころジャズエイジという言葉がうまれ定着しました
それは禁酒法という到底守れっこない法律のせいで、
規律そのものが緩んだ時代の雰囲気を言い当てています

【ナレーション】
首都ワシントン、ジャズの本場から離れたこの街にも才能の輝きを放つ若きミュージシャンがいましたエドワードケネディウェリントンです
1899年4月29日エドワードケネディエリントンは首都ワシントンの北西部暴力や盛り場とは縁のない中流家庭が並ぶ黒人地区に生まれました
後にジャズピアニストとしてまた作曲家として天才ぶりを発揮するエリントン
その育った環境はニューオリンズのルイアームストロングとは対照的でした
父親はホワイトハウスにも務めたことのある執事でした
彼の家庭は経済的には裕福ではないものの、常に上品で礼儀正しい雰囲気に満ちていました
母親は息子が一番の理解者でした
毎週日曜には親子で教会に行き、ピアノのレッスンにも付き添いました
エドワードの特別な才能は母親の深い愛の下で芽吹いたのです
14歳になるとエリントンは中流家庭の上品な遊びには飽き足らず、
親に内緒で繁華街に繰り出すようになりました
中でもビリヤード場は親しい仲間のたまり場でした
劇場にも出入りしました
そのうちに自然と当時はやりのジャズが耳に入るようになります
ジャズピアニストたちの即興的な演奏に彼は両耳をそばだてて何時間でも聞き入っていました
エリントン自身もまた女の子の気を引くために軽い気持ちでピアノの前に座りました
しかしすぐに彼の才能が鍵盤からほと走り始めます
エリントンの優雅な着こなしをからかって、デューク「公爵」と呼び始めました
彼は作曲も始めます最初に書いたのはソーダファウンテンラグという作品でした
まもなく彼は学校を中退し、ザ・デュークスセレネイダーズというンドを結成しました
気位の高い彼は演奏会場では必ず仲間にドアを開けさせ
「道をあけろデューク様のお通りだと」告げさせました。
その上品な演奏スタイルが気に入られて、エリントンのバンドは大使館や白人地区で行われるパーティーに頻繁に雇われるようになりました
1923年1月、すでに結婚して息子も誕生したエリントンはニューオリンズからやってきた、
名高いミュージシャン、シドニーベシェを聞くためにハワード劇場にでかけました
エリントンはその夜のことを生涯忘れられませんでした。
ベシェの演奏は彼の魂そのものであり、内側からほとばしっていました
ニューオリンズのサウンドに彼は全身を揺さぶられる思いでした
その出会いは彼に転機をもたらすのです
ジャズエイジが熱狂の度を増す、1920年代それまで着々とキャリアを積み自信を強めてきたエリントンは一つの壁に突き当たりました
彼はもはやワシントンの白人に気にいられるだけでは満足できませんでした
さらなる高みを目指すには新しい挑戦の場が必要でした

【ナレーション】
1922年8月ニューオリンズ発シカゴ行きの列車に乗り込む大群の中に
21歳のルイアームストロングの姿がありました
彼は憧れのミュージシャン、ジョーオリバーに誘われ妻と別れて旅立ったのです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
オリバーの一言は彼にとって何より特別でした
シカゴのリンカーンガーデンズで一緒にやろうという電報見た途端彼は母親が作ったサンドイッチを手にさっさとでかけました

【ナレーション】
アームストロングの手荷物はコルネットのケースとおんぼろの旅行カバンが一つ
その中にはツギをあてたタキシードが一着入っていました
母親は遠くへ行く息子にシカゴは寒いから長い下着を着るようにと告げました
南部の町からシカゴへ毎日のように黒人たちで満員の列車が向かっていました
その多くは人種差別と極貧の生活を逃れ、裸同然で新天地に渡る人たちでした
第1次世界対戦が始まって以来、工業都市シカゴは労働者を求めていました
北へ向かう人口の大移動その波の中にアームストロングも加わったのです。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
列車はシカゴにつきます駅に降り立った彼を見て、
誰もがくすっと笑ったでしょう。彼が着ていたのはだぶだぶの黒いコートに黒いスーツ
洋服も髪型もまるで冴えない姿でした。
その彼が間もなく町の王者になるなんて誰が思ったでしょう。

【ナレーション】
アームストロングはオリバーのいるクレオールジャズバンドに早速加わりました
オリバーとアームストロング、二本のコルネットは完璧なデュエットを奏でました
アームストロングは相手が吹こうとするメロディーを本能的にとらえ、
見事にこたえたのです。そのエキサイティングな演奏はシカゴの聴衆を唸らせました。
二人のセッションは町中の噂となりリンカーンガーデンズには程なく白人の聴衆も訪れるようになりました
1923年4月波に乗るクレオールジャズバンドはレコーディングのためにシカゴからインディアナ州リッチモンドへと向かいました
この時始めてルいアームストロングの演奏がレコードの溝に刻まれました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
通常のレコーディングではトランペットの周りにバンドを配置して演奏を収録します
ところがアームストロングの音は迫力がありすぎるんです
ほかの楽器と音のバランスを取るために彼はバンドの数メートル後ろ、ドアの外の廊下に立って演奏しました
それがこのサイムズブルースというレコードです
間違いなくジャズの歴史に残る一枚です
アームストロングは曲の途中でソロのパートを割り当てられていました
もちろんレコーディングの場では特に即興を求められたわけでありませんでした
しかし彼は堂々たる即興をやってのけ華麗な力強いサウンドで曲を彩りました
これまでのアンサンブルにはなかった刺激的で力強い響きそこにはジャズの未来が暗示されていました
そのほとばしるような閃きは彼自身にも抑えられない聖なるサウンドともいうべきです
このレコーディングを2年後には彼はソロプレイヤーとしても押されもせぬ存在となり芸術としてのジャズを集大成していきます

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】
ミュージシャンはよく音で物語を奏でるのだと表現します
自分だけの世界を彼らは音で語りかけるんです
ルイは絶妙な語り手でした彼の音には聞き手を引き込み、
陶酔の世界に誘うようなストーリーがあります
そこに彼の本領、天から与えられた才能を感じます

【ナレーション】
ニューヨークジャズエイジのエネルギーはこの大都市にも充満し
ミュージシャン達は競い合いながら成長していました
ハーレムのピアニストたちはストライドという左手で激しくコードを操る即興的な演奏を好みました
人によってはその演奏オーケストラ風ピアノと呼びました
豊かで広がりのあるコードを右手のメロディーに対応して素早く展開させるのです
ストライド走法は一種の名人芸でした
プレイヤー達は互いの演奏スタイルにあだ名をつけ好戦的な態度で腕を競っていました
カッティングコンテストと名付けられた協議会的な演奏の催しが当時頻繁に行われていました
1923年の初めデュークと言われたピアニスト、エドワードケネディエリントンは二人の仲間と共にニューヨークのハーレムに乗り込みました
エリントンは首都ワシントンでの安定した成功を捨て
この街の喧騒の中で自分の実力を試そうとしたのです
エリントンにとってハーレム当時世界で一番輝いて見える場所でした
彼のニューヨークでの初仕事はウィルヴァースウェットマンというボードビルミュージシャンの伴奏でしたスウェットマンはバンドのメンバーが白人風に見えるよう顔に白塗りを強制しました
スウェットマンが町を去ったあとエリントンと友人二人は食い繋ぐために走り回り、
時には賭博場で危ない橋も渡らなければなりませんでした
しばらくの間エリントンに回ってくるのは小さな仕事ばかりでした
彼は空いた時間にはストライドピアノの演奏を聴きに行き、
自分のチャンスを待ちました

【ナレーション】
半年ばかりたった1923年秋、エリントンと二人の仲間はタイムズスクエアのはずれにある、
ハリウッドインで演奏することになりました
彼らはそのころ小編成のダンスミュージックバンド、ワシントニアンズの一員になっていました
リーダーは興行主でもある盤上プレーヤーエルマースノーデンでした
しかしスノーデンはメンバーの給料をピンハネしていることが発覚し楽団を追い出されます
新しいリーダーの座にはエリントンがつきました
僕らが音楽に新しい色や形を取りこんだのはハリウッドインのお陰だった
エリントンは後にそう語っています
彼はこの時期貪欲に色々なものを吸収しました
都会的な洗練を感じさせるストライド走法
シドニーベシェによってであったニューオリンズのサウンド
こうした者が全て彼の音楽に吸収されやがて独自の世界を築く礎となるのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
エリントンたちの演奏は最初は社交界用の響きでした
上品なビブラートです。そこへシカゴのオリバーたちの音が入ってきました。
エリントンはよし、これで行こうと決めました
つまりリズムとビートが命の演奏スタイルです

【ナレーション】
1924年になるとエリントンはレコーディングや自分の作品を出版社に売り込むチャンスを得ます
成功の足がかりが見えてきました
しかし彼はなお、自分の音楽のスタイルに満足できず、
この時期友人であるクラシック出身の音楽家、ウィルマリオンクックに相談を持ちかけています
二人はセントラルパークを走るタクシーの中で話し合いました
音楽学校で正規の教育を受けてはと勧めるクックに自分にはその時間がおしい自分には学校には習いたいような音楽はないと答えました
その時クックは友にこう助言しました
ならば自力でいい、まずは論理的な方法を極めるんだ
そしてそこから外れろ。既存のものを突破した時に自分の道が開ける
自分以外の誰をも目指すな。
それはエリントンが生涯座右の銘とする言葉となりました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
エリントンが目指したのは自己の内なる可能性を形にすることでした
誰にも似ていない自分だけのスタイルを求めたのです

【ナレーション】
白人のなかにもジャズの世界に飛び込んでくる逸材がいました
ポールホワイトマン、出身はコロラド州それまでの職業はオーケストラのバイオリン奏者でした

【ライター:ジェームズ・マー】
突然彼はジャズの魅力に目覚め打ちのめされたんです
たまたま聞いたジャズバンドの演奏に彼は猛烈なパワーと湧き上がる楽しさ、
憂鬱を洗い流し、人を幸せにする力を感じました。
そこで考えたんです。自分の音楽家としてのキャリアを活かして、
ジャズをオーケストラ用にアレンジしたらどうか

【ナレーション】
ホワイトマンはオーケストラによるジャズ演奏がかならず当たると確信しました
ジャズのリズムとハーモニーにクラシック音楽のような正確さと予測可能性を盛り込むこと
つまりジャズを上品なレディーに仕立てることが彼の狙いでした
1920年彼が放った大ヒット曲ウィスパリングこのレコードは250万枚も売れました
それはアームストロングとオリバーの出したチャイム図ブルースの250倍以上の売れ行きでした
ポールホワイトマンはシンフォニックジャズという新しいジャンルを確立し以後多くの演奏家の影響を受けます
アメリカの社交ダンス界もシンフォニックジャズに夢中となりました。

【ナレーション】
1924年2月12日ニューヨークのエオリアンホールで開かれた
ポールホワイトマン楽団の演奏会には寒さの中大勢の聴衆が詰めかけました
その日の演奏会は現代音楽の実験と銘打たれ、
ある若いユダヤ人作曲家が新作を披露することになっていました
ジョージガーシュイン、彼もまたニューヨークのハーレムで黒人達のピアノに親しみ
ジャズの洗礼を受けた一人でした
ジャズのフィーリングに満ちた新しいクラシック、ラプソディインブルーは
アメリカの音楽史を代表する1曲となりました
ホワイトマン楽団の演奏会は大成功を収めました
シンフォニックジャズジャズ本来の遡及的な要素は全くありません
それでも人々はポールホワイトマンをキングオブジャズという称号で呼ぶようになりました

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】
彼がジャズの王者だなんて黒人たちは猛反発しました
しかもホワイトマンは白人という意味でしょう
余りにもあからさまです。ホワイトマン自身は悪くないとしてもね

【ナレーション】
ホワイトマンが名声を得たのと同じ年、タイムズスクエアにある白人専用ダンスホール
ローズランドでフレッチャーヘンダーソンという若い黒人がバンドリーダーとしてデビューしました
ピアノ教師と校長を両親に持つヘンダーソンはコロンビア大学の大学院へ科学を学びに来ていた相当なインテリでした
ところが貯金が底をついたため音楽の世界に足を踏み入れそこで当時のジャズ旋風に巻き込まれました
彼の洗練されたダンス音楽はローズランドの白人客たちを虜にしました
ヘンダーソンの名はニューヨークのバンドの世界で一躍有名になります

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
ニューヨークのバンド界には二人のキングが現れもてはやされていました。
白人の王ポールホワイトマンと黒人の王のフレッチャーヘンダーソンです
二人は仲が良くお互いの曲を編曲しあうほどでした

【ナレーション】
ある晩ホワイトマンはヘンダーソンの演奏を聴いてこう漏らしました
もしフレッチャーが白人だったら億万長者になれただろう
しかしヘンダーソンは上品さが売りの白人向け音楽にはすぐに飽き足らなくなりました
かれは黒人としての音楽のルーツに目覚め自分の演奏スタイルをよりスリリングで
内側から訴えかけるものにしたいと思ったのです
ヘンダーソンは彼をサポートしてくれる演奏家を求めました
そのころ彼の周りではこんな噂が広まっていました
シカゴのジョーオリバーのバンドに一人の天才トランペッターがいる
天才ルイアームストロングの演奏はシカゴだけに留まるものではありませんでした
彼がニューヨークに来た時ジャズは永遠に生まれ変わることになります

【ナレーション】
1924年アームストロングはオリバーのバンドを離れソロプレイヤーとして独立します
そしてフレッチャーヘンダーソンの要請を受けて、
馴染みのない大都市ニューヨークへとやってきました
ニューヨークの垢ぬけたミュージシャンに比べアームストロングの風貌は地味で野暮ったく見えましたしかし演奏が始まった瞬間印象はガラリと変わりました
アームストロングはその音色で回りを圧倒しオーラを放ったのです

【サックスプレーヤー:ベニー・ウォーターズ】
私は1924年ニューヨークでルイの演奏をはじめて生で聴きました
それは特に彼を目立たせるような曲ではありませんでした
曲の半ばまで彼はじっと座って、自分の出番を待っていました
やがて彼が立ち上がって猛然と吹き始めるや観客は熱狂しました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】
アームストロングは楽団に変革を起こしたばかりかニューヨークのジャズ界
さらにはポピュラー音楽の世界さえ変えていったんです
彼がもたらしたもそれは圧倒的なリズムの高揚感でした
彼はやたらと飾ることを嫌いな無駄な音を一切そぎ落としました
そしてそこにブルースの響きを盛り込んだのです
アームストロングはアメリカの黒人が生んだブルースの魅力を余すことなく伝えました。
彼の演奏に触発されて誰もがブルースに秘められた可能性に目覚めました
ニューヨークで活動していたデュークエリントンもその一人でした
彼はアームストロングを聴くことで自分に足りなかった何かを掴んだのです

【ナレーション】
アームストロングの偉大な音楽そのジャズの特徴はスイングという言葉によって象徴されます


【ベーシスト:アーベル・ショー】
スイングとは最適の音を最適の瞬間に奏でることです、はやくても遅くてもダメです
ジャズはリズムで勝負する音楽つまりタイミングと躍動感が命なんです
例えばこんなメロディ「普通はこう」「スイングすると」
こんな風に決して立ち止まらずに無限に続けていくんです
それは心臓の鼓動のように会場の全てを支配し聴衆の体を自然と揺らします
それがスイングというジャズのユニークで偉大な特徴です

【ナレーション】
スイングこそルイアームストロングが伝えたジャズの神髄でした

【歴史家:フィル・シャープ】
1924年9月ルイアームストロングがニューヨークにやってきた瞬間から
ジャズの歴史は次のステップへ踏み出しました
あらたなキーワードはスイングです
アームストロングは黒人の若者たちが集う店でも演奏し、
一緒にセッションしたミュージシャンに多大な影響を与えました
中には元々バイオリニストだったのにアームストロングと一緒に吹きたいからと言って
アルトサックスに転向したプレイヤーもいたくらいです
さらに彼はフリーのソロプレイヤーとして多くのレコーディングに参加し、
ベーシースミス、マーレーニ、シドニーベシェ等と一緒に演奏しました
レコードに吹き込まれた音楽はダンスホールに足を運べない聴衆の耳にも届きました
彼のジャズに世界が体を揺らし始めました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】
ルイアームストロングは新しいスタイルをうちたてました
ソロによるジャズです
彼はジャズにブルースを融合させトランペットの可能性を広げました
彼が作り出したメロディとリズムから後のプレーヤーはどれほど多くを学んだかしれません
アームストロングを語るとき人は天才という言葉の本質に突き当たります
その音はそれまでの音楽の通年打ち破りました
彼の刻むリズム、奏でるメロディーはトランペットという楽器を通して語られた彼の内なる声でした
そのパワーとスピリットはジャズを天使すら涙する真の芸術まで高めたのです