JAZZの歴史|第9回

JAZZ|第09回|ビ・バップ

YouTubeよりテキスト引用 https://youtu.be/kIWftJcSfYA

【シンガー:ジョン・ヘンドリックス】 あれは1946年ドイツのブレーマーハーフェンから、軍の輸送船に乗ってニューヨークへ帰る途中のことでした あの曲が突然スピーカーから流れてきたんです 熱に浮かされたように刺激的、激しくスピーディで本当にすごかった 頭を天井にぶっつけそうな勢いで飛び起きました そして放送室に駆け込んで、今のは何だと担当者に詰め寄りました あの曲だよ、今かかっていたアレ、と言ってもよく知らない レコードなら床にあるよというので、目を下に向けるとレコードだらけ レーベルの色は赤を目印に、自分で探し始めました そしてついに発見しました、ソルトピーナッツという曲でした 演奏はチャーリーパーカーとディジーガレスピー 私は担当者に30ドル渡してこう言いました この曲をこれから1時間ぶっ通しでかけ続けてくれ

【ナレーション】 第二次世界対戦の終結とともに、ビッグバンドによるスイングミュージックは衰退の一途をたどりました 大衆の好みは一変し、楽器のプレイヤーに変わって、歌手が人気の的になったのです 若いファンは生の歌声に接しようと会場に詰めかけました その中でも特に大きな人気を集めたのは、トミードーシー楽団出身のバリトン歌手、フランクシナトラでした ビッグバンドは生き残りに必死でした。 デュークエリントンとカウントベイシーのバンドは何とかツアーを続けられましたが、 1946年のクリスマスまでに八つの有名バンドが、ツアーの中止を余儀なくされました。 ハリージェームズ、スタンケントン、ベニーカーター、 トミードーシー、ウディハーマン、そしてスイングの王様ベニーグッドマン そういった大物のソロプレイヤーたちは、ビッグバンドを諦め小編成のバンドを結成します 演奏の場もダンスには不向きな、狭いナイトクラブなどに移りました しかしジャズそのものが衰退したわけではありません それどころか戦争が終わる頃には、アメリカ中のクラブでジャズが演奏されるようになっていたほどです ただしその演奏スタイルは、大幅に変化していました きっちりと計算されたショーのようなスタイルに変わり、緩やかな約束事に基づいて、 ミュージシャンが自由に共演する、ジャムセッションが主流になっていたのです ジャズはスイング時代に別れを告げ、モダンジャズの時代に突入したのです アメリカ中のクラブや、小さなレコードレーベルから聞こえてきたのは、 それまでにない新鮮でスリリングなジャズでした その音楽はいつしかビバップと呼ばれるようになりました

【シンガー:ジョン・ヘンドリックス】 オリジナルのメロディーは徹底的に変えられていました それを支える和音、コードもです 例えばこんな具合です このウィスパリングという甘いポピュラーソングが、チャーリーパーカーにかかるとこうです あまりにも刺激的、独創的、芸術的な手法でした これを応用すれば、どんな表現でも可能になるという希望で胸が膨らみました

【ドラマー:スタン・リービー】 目が回るほどはやく、テクニックとアイデアの連続でした それにコード進行も前代未聞でした 先駆者となったのは、ロイエルドリッジや、コールマンホーキンスなどです そのあたりからジャズに、急激な変化が起きました 私は耳にした瞬間、これこそ自分にぴったりのスタイルだと思いました

【ナレーション】 ジャズ史上最大の革命であり、進化でもあったビバップ、 それはハーレムの、ミントンズプレイハウスなどで行われていた、 ジャムセッションから生まれたものです そのセッションに参加し、ビバップへの道を切り開いたミュージシャンは コールマンホーキンス、チャーリークリスチャン、ケニークラーク、そしてセロニアスモンクなどです ビバップでは一定のわかりやすいダンスリズムが破壊され、 リズムセクションがより自由に、フロントの管楽器と絡み合うようになりました また従来の音楽理論では、協和音とみなされるような音も活用されました それによってスリリングで、燃えるような生命力に溢れたサウンドを作り出すことができたからです 戦時中に生まれたビバップは、時代を反映した音楽だ 混乱した音楽と思われがちだが、決してそんなことはない そう語ったのは後にビバップのリーダー的存在となるディジーガレスピーでした そしてガレスピーと共に、ビバップの先頭にたったのがチャーリーパーカー、 バードというニックネームを持つジャズ界の革命児でした

【シンガー:ジョン・ヘンドリックス】 彼は天才でした 原子物理学や量子論に至るまで、どんな話題にも対応できました 本当にすごい男でした 好きな作曲家はストラヴィンスキーで、特に春の祭典がお気に入りでした パーカーは本物のインテリです その知性は特大サイズでした

【ナレーション】 しかしパーカー演奏だけでなく、私生活も破天荒でした 17歳の時からヘロインを常用していたのです

【作家:スタンリー・クラウチ】 チャーリーパーカーは、いつも自分の欲望に屈し振り回されていました 欲望という名の自動車に、体を繋がれているようなものです その車は彼を引きずりながら走ります スピードが遅ければかすり傷程度ですみますが、はやいと大けがを負うことになります

【ナレーション】 1945年12月チャーリーパーカーとディジーガレスピーは、 ドラマーのスタンリービーらと共にカリフォルニアへ出かけました ハリウッドのクラブで、新しいジャズを演奏するよう招待されたのです ガレスピーは相棒であるパーカーの音楽的才能には最大の尊敬をはらっていましたが、 その気まぐれで破滅的な性格にはついていけないものを感じ始めていました そしてこの旅は二人の間に決定的な溝を作ることになります

【ドラマー:スタン・リービー】 カリフォルニアまで予定よりも長旅になった為、パーカーはひどい状態に陥りました 汽車が砂漠の真ん中で止まった時の事です ふと窓の外を見ると、ずっと向こうにかばんを持った小さな点のようなものが動いています 何だろうと目を凝らして見るとチャーリーパーカーでした

【ナレーション】 パーカーはドラッグを求めて砂漠に迷い出たのです

【ドラマー:スタン・リービー】 ガレスピーがあれはなんだと聞くので、うちのサックスですよと答えると、 連れ戻して来いと言われました、すぐに飛び出して行って捕まえました どこへ行くつもりだと聞くと、ドラッグを買いに行くんだと言います なんとかなだめて連れ戻しましたが、ロサンゼルスについた時にはもう彼はボロボロでした

【ナレーション】 一行がハリウッドに到着すると、ウエストコーストの若手ミュージシャンたちが、ライブ会場に殺到しました 彼らはパーカーやガレスピーがやっているのと同じ、新しいジャズを模索していたのです パーカー達の演奏に酔いしれた若者の中には、 ハワードマギー、チャールズミンガス、デクスターゴードンなどもいました しかしほとんどのジャズファンはビバップに戸惑うばかりでした その新しいサウンドは彼らの耳には、過激で無秩序としか感じられなかったのです 客足は次第に遠のいていきました

【シンガー:ジョン・ヘンドリックス】 彼らはこう呼びかけていたんです さぁこっちへ来いよ、俺たちのいるところまで 俺たちは普通よりもちょっと進んでいるだけさ さぁ一緒に飛ぼう、耳の穴を掃除してよく聞いてごらん

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 新しい芸術スタイルが作り出されたとき、大切なのは自分からそこに近づくことです ベートーベンの音楽も、ピカソの絵画も、シェイクスピアの戯曲も、みんなそうです 新しいものを理解しようとする積極的姿勢があって、はじめてその価値を理解できるんです

【ナレーション】 ロサンゼルスでヘロインを探し回ったパーカーは、数週間後に信頼できる密売人と出会いました パーカーはその密売人、通称ムースザムーチに感謝して、彼の名前を曲名にしたほどです ニューヨークへ戻る前の晩、パーカーはヘロインを買うため、航空券を金に変え姿をくらましました ガレスピーは無二の音楽的パートナーだった、パーカーについに見切りをつけ、ニューヨークへ帰っていきました 一人ロサンゼルスに残ったパーカーは、ダイヤルレコードという小さなレーベルとレコーディング契約を交わしました しかし密売人ムースザムーチが捕まって、ヘロインが手に入らなくなったため、 パーカーは禁断症状に苦しみ、それを和らげるためのアルコールで、さらにボロボロになっていきました 1946年7月29日、彼は最悪のコンディションでレコーディングに臨み、 ラバーマン他、数曲を吹き込みましたが、そこに記録されたのは悲痛なまでに歪んだヨレヨレの演奏でした このレコーディングを終えると、パーカーは完全に壊れてしまいました ホテルのロビーに裸で現れたかと思うと、寝タバコでボヤ騒ぎを起こす しかも駆けつけた警官に反抗的な態度をとったため、彼はとうとう留置所に入れられてしまいました 裁判の結果パーカーは精神科の患者として、カマリロ州立病院に収容されることになりました ジャズ界に革命をもたらした天才の入院生活は半年に及びました しかしレタスを育てたり、病院のバンドでサックスを吹いたりして過ごす間に、 彼の健康状態は急速に回復していきました 一方ディジーガレスピーは、今やビバップの顔となっていました 彼はビバップが芸術的に優れているだけでなく、 スイングと同様、踊れて楽しい音楽であることを、人々にアピールしようと努力していました ガレスピーは様々なタブーを打ち破っていきました 例えば彼は女性のメルバリストンをトロンボーンプレイヤーとして起用しました 素晴らしい才能さえあれば、性別など関係ないと考えたのです また傑出した才能を持つ、キューバのコンガプレイヤー、チャノポゾもメンバーに加えました 元々ニューオーリンズで生まれた初期のジャズ、はカリブの音楽から大きな影響を受けていました ガレスピーはクバナビーア、マンテカといった曲を通じて、ジャズとカリブ音楽との絆を取り戻そうとしました

【ドラマー:スタン・リービー】 多くのミュージシャンは秘密主義で、音楽的な知識やテクニックを隠そうとしましたが、 知っていることは何でも教えてくれました 一切の出し惜しみをせず、同時に自分も他の人間から多くのことを学んでいました

【ナレーション】 しかしガレスピーのきらめくような演奏、躍動するリズム、そして優れたショーマンシップをもってしても、 ビバップはなかなか幅広い人気を獲得することができませんでした スイングのようなわかりやすいダンスミュージックを求める観客にとって、 ビバップはあまりにも高度で、踊るのには不向きな音楽だったのです 1947年の初めに退院したチャーリーパーカーは、つかの間ヘロインとの縁を切ることに成功しました 古巣のマンハッタン52丁目に戻った彼は、クインテットを結成して演奏活動を再開します メンバーはドラムにマックスローチ、そしてトランペッターには若手のマイルスデイヴィスを起用しました やがてパーカーは大勢の若手ミュージシャンが、自分を真似て演奏していることに気づきました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 誰もがパーカーを真似しました ベースならこう、ドラム、ピアノ、トランペット みんなパーカーをコピーしていたんです

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 若いころからずっと、パーカー、パーカーでした バードのものまねとからかわれてもお構いなしでした 自分らしさなんて関係ありません、ただただチャーリーパーカーみたいに吹きたかったんです アポロ劇場に彼が出演した時には、待ってましたとばかりに出かけて行きました 学校をズル休みしてです いつものように朝、家を出て仲間と一緒に地下鉄に乗りました ただし行先は学校のあるブロンクスではなく、劇場のあるマンハッタンの125丁目です 駅のロッカーに教科書を突っ込むと、いよいよアポロ劇場に向かいました ライブの開演まで映画を上映していたので、しばらくはおとなしくしていました そしてパーカーが現れました 彼はレコードで耳馴染みの曲を次々と披露してくれました ショーを最高に楽しんだ後、横の出口から抜け出して舞台裏へと走りました 一目バードに会おうと思ったんです 彼を見つけあなたに会いに来たんですと言うと、 何やってるんだ、学校はさぼったのか?まぁ気をつけて帰れよと声をかけてくれました

【ナレーション】 評論家はパーカーの演奏をビバップの代表的なものとみなしましたが、 彼自身はそのようなレッテルを貼られるのを嫌い、こう語りました 俺がやっているのは音楽だ、俺はただよどみなく演奏し、その中で最高の音を見つけようとしているだけだ パーカーの熱烈なファンは増える一方で、彼らはパーカーの出演するあらゆるステージを追いかけ回しました 中には録音機を隠し持っている者もいましたが、その多くはパーカーのソロになるとスイッチを入れ、 ソロが終わるとスイッチを切っていました

【トランペッター:ハリー・スイーツ・エディソン】 チャーリーパーカーの演奏はミュージシャンから見ると、 メロディーを取り違えているんじゃないかと思う時がありました しかしそんな事を彼の信仰者の前で言ったら、張り倒されそうな雰囲気がみなぎっていました

【ナレーション】 パーカーの信仰者は古いジャズや、他のポピュラーミュージックを子馬鹿にしましたが、 パーカー本人は音楽なら全て受け入れていました

【評論家:ナット・ヘントフ】 パーカーはニューヨークの、チャーリーズタバンという酒場を行きつけにしていました そこにはジュークボックスがあって、ジャズのほかにカントリーのレコードが何枚かありました パーカーはそのレコードばかりかけていました、周りの人間は戸惑いましたが、 あの偉大なジャズの革命家に、なぜそんな古臭い音楽をと尋ねる勇気もありません しかしついに一人が口を開きました するとパーカーはこう答えました よく聞け、物語がきこえてくるだろ パーカーは大真面目でした

【ナレーション】 ある吹雪の晩、マンハッタンを歩いていたパーカーは、急に立ち止まりその場から動かなくなりました 救世軍の楽団演奏に聞き入ってしまったのです また郊外を移動中に仲間の一人が何気なく、家畜は音楽が好きらしいといいました それを聞いたパーカーは車を飛び降りて、牧場に忍び込み一頭の牛を相手に、サックスの演奏をはじめました 牛が迷惑そうな顔をしていたのは言うまでもありません

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 ある日学校から帰ると母親がこう言いました 多分信じないと思うけど、今日チャーリーパーカーから電話があったわよ 思わず興奮して、何だって?それはいったいどういう事だよと詰め寄りました 今夜シャトーガーデンて店に来てくれって、青いスーツにシャツとネクタイを忘れずに、 彼が来るまでそこで前座を務めてほしいって 私は大慌てで練習をはじめました 一世一代のステージのためにです 幕が開くとお客はガッカリしていました そこにいたのがバードじゃなく、私だったからです ともかく私は演奏を始めました コンファメーション、ナウズザタイム、チュニジアの夜、ドントブレイブミーといったパーカーのレパートリーをです やがてお客が後ろに押し寄せていきました バードが来たんです、サックスのケースがまるで宙に浮かぶように近づいてきました 大勢の人に取り囲まれたパーカーが、ケースを頭上に持ち上げて歩いていたんです パーカーはこう言いました、一曲一緒にやろう、彼と一曲共演し私は舞台を降りました そのあとはパーカーの独壇場です

【ナレーション】 パーカーやガレスピーといった新しい世代のミュージシャンが台頭する一方で、 戦前のジャズを代表するルイアームストロングも、根強い人気をほこっていました ビバップの過激なサウンドに馴染めない人々にとっては、アームストロングの音楽こそジャズそのものだったのです 1949年黒人の社交クラブの王様に選ばれたアームストロングは、 ニューオーリンズの年中行事マルディグラのパレードに参加しました

【ベーシスト:アーベル・ショー】 ルイはアフリカのズールー人の王様に扮しました 王様が登場するとバンドの演奏、聖者の行進が演奏されみんなでシャンパンを飲みました 忘れられない思い出です

【ナレーション】 しかし根強い人種差別に怒りを募らせていた若い黒人たちは、アームストロングを非難しました 白人が黒人に扮したような、アームストロングのメイクが彼らの目には、卑屈でグロテスクなものと写ったのです

【作家:ジェラルド・アーリー】 アームストロングは、白人に媚びへつらう黒人という誤解を受けたんです いつも笑顔でにっこり、汗っかきでハンカチが手放せない、歌えばだみ声、 彼がどれほど偉大な音楽家であるか、当時の人々は理解していなかったんです 白人に人気があったのも仇となりました そして若い黒人たちは彼の歌をセンチメンタルだと馬鹿にするようになりました 黒人の地位向上を求める若者たちにとって、アームストロングの姿は過去への逆戻りのように見えたんです 白人が黒人に扮して馬鹿なことをやる あの屈辱的なミンストレルショーを思い出したんでしょう

【ナレーション】 パレードの後ニューオーリンズではルイアームストロングオールスターズのコンサートが予定されていました ところがメンバーの中に白人がいることが分かると、コンサートは急遽中止されました アームストロングは友人にこう語りました もうあの街に戻れなくても構わない 昔は肌の色など関係なく、誰もが一緒に音楽を楽しむことができたはずなのに

【ベーシスト:アーベル・ショー】 彼は深く傷つき、それを生涯許しませんでした ルイの墓がニューオーリンズに無いのもその為です 彼はコンサートを中止に追い込んだ市のやり方に、 心底の怒りを覚え生まれ故郷であるニューオーリンズの地に眠ることを拒否したんです

【ナレーション】 1949年チャーリーパーカーはより多くのファンを獲得するため、 ストリングスをバックに甘いラブソングを演奏したレコードを吹き込みました 厳格なファンからは不評を買いましたが、このレコードはそれまでのパーカーの作品中最大のヒットとなりました

【サックスプレイヤー(ウィントンの兄):ブランフォード・マルサリス】 パーカーは魂を売ったと言って非難する人が大勢いました でも実際にはパーカーは革新的なことをやり遂げていたんです 彼はありふれたラブソングを、まったく独自のスタイルで演奏しました パーカーらしさは少しも失われていません レコードに針を落とせば聞こえてくるのは、紛れもないチャーリーパーカーの音楽です 例えばジャストフレンズ、こんな歌です こういう歌が、パーカーの演奏では、より感動的です あるいはこんなフレーズ、信じられないようなサウンドです あのレコードには自由で軽やかなパーカーが息づいています

【ナレーション】 1949年12月マンハッタン52丁目のすぐ傍にビバップの殿堂がオープンしました その名もバードランド、もちろんパーカーのニックネームから取られたもので、本人も定期的にステージに登場しました 高まる名声の中、パーカーは私生活でも束の間の安らぎを見出していました ダンサーのチャンリチャードソンと暮らし始めたのです パーカーは彼女の娘も養女に迎えました

【パーカーの妻:チャン・パーカー】 チャーリーは生命力の塊でした その点では私が出会ったどんな男性にも勝っていました 実年齢以上の成熟を感じさせる人でした 彼自身もその点には自信を持っていたようです カリスマ性がありましたね

【ナレーション】 やがて二人は子供に恵まれました 息子のベアードと娘のプリーです しかしその幸福は長続きしませんでした

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 パーカーはいわば多重人格者で、常に複数の顔を持っていました 名声の頂点にいたころ彼は三つの人生を同時に送っていたんです 一つ目はジャズマン、常に腕を磨きながら毎晩ステージに立つんですから、普通はこれだけで手いっぱいです 二つ目はドラッグを常用する所謂ジャンキー、これも片手間で済むようなものではなく、 ジャズマンとしてのパーカーを苦しめました そして三つめは良き父親、良き夫としての顔、 一家はイーストビレッジで暮らしていましたが、パーカーは近所の人たちの間で、 いつも笑顔の気さくな人で通っていました こうしてパーカーは全く違う三つの顔を同時に演じていたんです

【ドラマー:スタン・リービー】 パーカーはいわばペテン師ですよ みんなまんまと騙されてしまう いつも忙しく飛び回りなかなか捕まえられないので、余計興味をそそられる そしてあのサックスで誰の心も鷲づかみにしてしまうんです

【ナレーション】 ステージに上がったパーカーは、猛り狂う才能を見事にコントロールしていました しかしいったんステージを降りると、今度は果てしない欲望がパーカーをコントロールしました 彼は飽くことを知りませんでした、もっと食い物を、もっと酒を、もっと女を、もっとドラッグを、 これが俺の拠り所さ、そうつぶやきながらパーカーは友人たちの前でも平気でドラッグを注射しました

【ドラマー:スタン・リービー】 彼の一日はこんな感じでした 先ず夜通しクラブで演奏、朝から昼までミントンズでジャムセッション、そのあとはドラッグの時間です いつもドラッグの代金を調達するために走り回っていました 間に2、3時間眠れれば御の字です まさしく24時間営業でした 持ち物を質に入れ、借金を重ね、金策に駆けずり回り、ひどい時間の浪費です その時間を音楽に充てていれば、どんなに素晴らしいものが生まれたことか

【パーカーの妻:チャン・パーカー】 私と暮らすようになってから、チャーリーは何度もドラッグを止めようと努力しました でも彼はこう言いました 体から追い出すことはできても、脳みそからは追い出せないんだ

【ナレーション】 バンドリーダーのアーティーショーは言いました ジャズはウィスキーの樽の中で産まれ、マリファナを肥やしにして育ち、ヘロインによって死のうとしている ジャズは常にマリファナ共にありました ルイアームストロングも毎日のように吸っていたほどです しかしヘロインの有害さは、マリファナとは比較にならないほど激しいものでした 犯罪組織が黒人居住区に安い値段でばらまいたせいもあって、 ヘロインは瞬く間に黒人社会を蝕んでいきました

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 それは戦後大津波のように家の近所でも、朦朧としている連中が目立つようになりました 最初は分かりませんでしたが、やがてホースをやってるんだと分かりました 当時はヘロインのことをホースと呼んでたんです

【映画監督:ベルトラン・タベルニエ】 ジャズを極めれば極めるほど、ミュージシャンは危険な領域に足を踏み入れます ジャズミュージシャンに課せられた要求はとても厳しいものです 観客は彼らに多くのことを求めます その要求はあまりにも厳しく、しかも早急です ミュージシャンたちは、それに応えるために命を削っています ジャズとはそんな綱渡りのような際どい状況に追い込まれる音楽です でも時にはそこから逃げ出したくなる 状況に逆らってみたくもなる そこで彼らはドラッグに走ってしまうんです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 周りから特別な存在と見なされると、新たな刺激を求めずにはいられなくなるものです またジャズの演奏に没頭していると、時間の感覚が失われます その時世界は完全な物になるんです しかしそれも演奏が終わるまでのことです そこでドラッグの出番です ハイな気分を持続させ、心配ないよと慰めてくれるからです

【ナレーション】 チャーリーパーカーの並外れたテクニックやアイデアを、 我が物にしようとするミュージシャンは後を絶ちませんでした 彼らはパーカーの音楽だけでなく、ドラッグの習慣まで真似するようになりました そうすることでパーカーの才能まで手に入れられるという夢を見て ピアニストのジョンルイスは言いました バードは燃え盛る炎だ、迂闊に近づけば火傷をする

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 チャーリーパーカーを崇拝する多くの仲間が彼を真似てドラッグに手を出しました 私もその一人です 私も18年間常用していましたからわかります ドラッグとの関係についていえば、私もバードも大した違いはありません 問題は家族です 仮に家族がドラッグを大目に見てくれても、悲惨な状況に変わりはありません 母がいて、妻がいて、子供がいて、その上ドラッグという化け物を背負い込むことなど不可能です

【ナレーション】 こうしてヘロインはジャズ界を蝕んでいきました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ドラッグのせいでジャズの発展はかなり遅れてしまいました ミュージシャンが音楽よりもドラッグに時間を費やすようになったからです リハーサルもろくに行われなくなりました ミュージシャン同士の関係もギクシャクするようになりました ドラッグをやっているミュージシャンが、やっていないミュージシャンをのけ者にするような事もありました かつてミュージシャンを温かくもてなした人々も、家の門を閉ざすようになりました ドラッグを買う金欲しさに盗みを働くものが出てきたからです ミュージシャン自身も他人を信用しない、冷たい性格になっていきました ドラッグが愛情を食い尽くしてしまったんです

【ナレーション】 ジャズはアメリカそのものだ 誰もがともに演奏し鑑賞することができる 肌の色など全く関係ない、そこは真に民主的な世界であり、問題になるのは演奏の出来栄えだけだ カリフォルニアうまれのプロモーター、ノーマングランツは人種的な偏りのないオールスターバンド、 ジャズアットザフィルハーモニックを率いて、毎年国の内外で公演を行うようになりました そうそうたるメンバーの主な顔ぶれは、ディジーガレスピーとチャーリーパーカー、エラフィッツジェラルド、 スタンゲッツ、マックスローチ、オスカーピーターソン、 ジンクルーパ、バディリッチ、コールマンホーキンス、そしてレスターヤング ノーマングランツには二つの目標がありました 新たなジャズファンの獲得と、ジャズ界における人種差別の撤廃です 1950年代に入ると人種差別撤廃を目指した黒人たちの、公民権運動が大きな盛り上がりをみせるようになりました そのような時代の中、ノーマングランツはジャズ界を人種差別から解放しようと努力しました 彼は公演で使う航空会社、ホテル、レストランなどが少しでも差別的な姿勢を見せれば即刻キャンセルしました

【ドラマー:スタン・リービー】 彼は差別の壁を打ち壊そうとしました ツアーに出ると彼は黒人も白人も関係なく、全員を一流ホテルに泊めました ロビーに集合した私たちをさして、ホテルマンに堂々とこう言ったものです これがうちの一行だ、全員に部屋を頼む 見上げたものですよ