JAZZの歴史|第6回

JAZZ|第06回|カンザスシティ

YouTubeより引用 https://youtu.be/fngQCE-jkaA

【ナレーション】 1937年、回復の兆しを見せていた大恐慌が再び悪化しました。 株価は急落し半年もたたないうちに400万人以上の新たな失業者が生まれました このアメリカ史上最も急激な景気の悪化を人々は、ルーズベルト不況と呼びました 社会の混乱によって最も苦しむことになったのは黒人でした 連邦議会で南部の白人が権力を振るっていたため、 黒人へのリンチを禁止する法律さえ成立しないままでした 他にも大きな不安がありました ヨーロッパで新たな戦争が勃発するのは時間の問題となっていたのです アメリカはそれに対する覚悟も準備も出来ていませんでした

【サックスプレイヤー:ジェリー・ジェローム】 1936年ハリーリーサーのバンドに加わった私は、中西部へツアーに出かけあちこちで一晩限りのライブを行いました 大恐慌のせいで人々は食うや食わずの状態です、にも関わらずたくさんのお客さんがライブに来てくれました 私はあるときハリーに言いました。 ハリーあのお客さんたちはどうやって御金を工面しているんだろう すると彼はこう言いました ジェリー、あの人たちは週末のためにお金をとっておくんだよ ビールを飲み、奥さんや恋人とダンスをして日常の悩みを忘れるためにね そして遊び終わったらまた働きだすのさ

【ナレーション】 1930年代後半スイングはビッグビジネスとなっていました 大恐慌は酷くなる一方だったにも関わらず、人々のスイングに対する熱狂はとどまるところを知りませんでした まるで全米が音楽に飢えているかのような状態でした

【ナレーション】 サクソフォン、所謂サックスがジャズの花形楽器の座に躍り出たのもこの頃です ビッグバンドスイングが生み出す利益は当時の音楽産業の70%近くを占めるようになっていました 中には週に15000ドル以上を稼ぐバンドリーダーもいたほどです。 しかしスイングの巨大産業化はビジネス最優先の風潮を招きました その中で個人の感情表現を初めとするジャズ本来の芸術性は次第に損なわれていきました 多くのミュージシャンは毎晩同じようなレパートリーを、同じように演奏することを求められ、 自分自身の表現が出来ないことに苛立ちを覚えていました そんな時テキサスやオクラホマ、ミズーリ、カンザスシティといったアメリカ中部の街で新たなスイングジャズが生まれようとしていました ブルース色の濃い力強いサウンドは カッティングコンテストと呼ばれるプレイヤー同士の腕比べの中で磨き抜かれていきました その新たな音楽を集大成し全米に広めた男、 スイングをそのルーツへとたち帰らせた男、それがカウント・ベイシーでした

【作家:アルバート・マリー】 ベイシーがそれまで聴いていた音楽ストンプでした カンザスやオクラホ、テキサスなどに見られるブルースの演奏スタイルです アップテンポでボーカルはまるで叫ぶような感じです それを発展させたものがカンザスシティ流フォービート、カウントベイシーの音楽なんです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 スイングは聞く人が積極的に参加することで成立する音楽です だからきく人に参加したくないと言われたらお手上げです 誰も無理強いはできません、 でもミュージシャンの出す音に耳を傾けてもらえれば彼らが手招きしているのがわかるはずです 彼らは決して俺の周りに近づくなとはいいません こっちへ来いよ一緒にスイングしようよと言ってるんです

【レコードプロモーター:マイケル・クスクナ】 サックスは1930年代末にジャズのメイン楽器となりました 最大の魅力はチェロと同じように男性ボーカルの声域に近い音を出せる事と、 表現力が飛びぬけてゆたかなことです

【ナレーション】 サックスは1840年代から使われ始めた楽器で、 半世紀以上の間マーチングバンドの要となってきました しかしサックスの表現力を最大限に引き出し、心躍る陽気な音も、 しっとりとした魅惑的な音も 出せる楽器にしたのはジャズミュージシャン達でした。 その最大の立役者となったのがコールマンホーキンスです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 テナーサックスで彼ほど力強い音を出したものはいません 音は大きいものの荒々しくはなく余分なビブラートなどはない 僅か八小節のソロパートが無限の広がりを持っています 当時テナーサックスは道化師が使うような楽器で、シリアスな音楽には向いていないと一般には思われていました ホーキンスが初めてテナーによる芸術を作り上げたんです

【ナレーション】 ミズーリ州セントジョーゼフにうまれたコールマンホーキンスは テント商や、小さな劇場で演奏しながら国中を回っていました そして1923年、18歳の時フレッチャーヘンダーソンのバンドに雇われました バンドに10年以上在籍したか彼は その間にルイアームストロングの演奏に刺激を受け、テナーサックスをソロ楽器として確立させました 誰も私のような演奏はしないし、私も他の誰かのような演奏はしない その言葉通り彼は唯一無二の個性的なサウンドを確立していきました 頭脳という意味のビーンが彼のニックネームでした 尽きることなく生み出される斬新な音楽的アイデア その想像力豊かな頭脳をたたえてつけられたものです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 彼は他のミュージシャンと競い合うのが大好きで、 こんなカードを配っていました。 「音楽を演奏しているつもりなら連絡をくれ、すぐにビーンテストを受けてもらうから」

【ナレーション】 背が高く険しい顔つきのミュージシャンがオクラホマシティにやってきた ずっしりとした白いセーターに青い帽子をかぶり 銀色のサックスを揺らしながら そのワイルドでエキサイティングな想像力のひらめきにあらゆるリードプレイヤーが色めき立った レスター・ヤング、彼はその使い古したサックスで黒人達の間に旋風を巻き起こしたのだ コールマンホーキンスの最大のライバルはレスター・ヤングでした ミシシッピで生まれニューヨークで育ったヤングは家族でやっていたファミリーバンドに参加し、 南部や中西部で数多くのツアーをこなしました しかし繊細な神経の持ち主だったヤングは父親の暴力や、 南部で遭遇した白人の暴動などに耐えかね、南部へのツアーを嫌がって家を出ました 1932年ヤングは中西部を中心に活動するバンド、オリジナルブルーデビルズに参加しました コールマンホーキンスと同じく彼も他のミュージシャンとの演奏勝負によって名をあげていきました ごく粗末な食事を腹に入れただけで彼は飽くことなく何時間も演奏を続けることができました ヤングは白人のサックスプレイヤー、フランキートランバウアーのレコードをいつも持ち歩いていました 彼はトランバウアーの小粋な語り口、軽やかで生き生きとしたサウンドを愛し自らのお手本としました その結果ヤングは男性的で力強いサウンドを信条とする コールマンホーキンストはまったく正反対のスタイルを身につけたのです

【ピアニスト:ジミー・ロウルズ】 彼はとても個性的でした、その演奏は当時のテナーサックスの主流からは完全に外れたものだったんです 彼のサウンドは丸みを帯びた、くぐもったような音で、それは何と言うかとても素晴らしいものでした 私はレスター・ヤングのソロを全部覚え、自分の演奏に応用しました そうやって腕を磨いたんです、がそれが唯一最大のレッスンでした

【ナレーション】 中西部での2度のツアーを成功させた後オリジナルブルーデビルズは東部を目指しました しかしケンタッキーとウエストバージニアの黒人街で彼らは思いがけない事態に直面しました その地域に住む黒人たちはとても貧しくライブのチケットを買う余裕などなかったのです 時にはたった3人の客を前に演奏することさえありました ツアーは失敗に終わりブルーデビルズは解散しました 貨物列車にただ乗りする方法を流れ者から教わったヤングは西へ向かって旅立ちました 自分の音楽が正当に評価される街、ジャズに新しい動きが起きている町、ミズーリ州のカンザスシティを目指して

【作家:ジェラルド・アーリー】 1930年代カンザスシティ、そこには若く才能のある黒人ミュージシャンが集まり、 新しくエキサイティングなスイングに満ち溢れていました まさにジャズの都です 世界でも最高レベルのミュージシャが集まり一晩じゅう演奏しています レスターヤングがそこを目指したのも当然です 誰でも行きたいと思いますよ、昔のゴールドラッシュみたいなものです 30年代には多くの黒人がカンザスシティに集まってきました 私たちアフリカ系アメリカ人にとってのフロンティア、つまり西部劇のようなものです

【ナレーション】 19世紀末のニューオーリンズ、1920年代のシカゴと同じくカンザスシティも、人や物の交流は盛んな街でした そして大丈夫の中にあっても繁栄を謳歌していました それを可能にしたのがこの町のボス、トム・ペンダーガスト 政治家であり同時にギャングのボスでもあった人物です 天使と悪魔、両方の顔を兼ね備えたこのユニークな男があらゆる面でカンザスシティを仕切っていたのです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 あちこちにクラブがあり、人々は夜の街にたむろしました そこで色々と悪い遊びをやらかすんです みんなその手の事は大好きですからね そんな街にいるんですからミュージシャンも色々と誘惑があったでしょう でも彼らは悪さよりもスイングを選んだんです

【ナレーション】 カンザスシティジャズにはいくつもの特徴がありました 心躍るビート、リードセクションとブラスセクションのシンコペーションのリズムがきいたやり取り これはコールアンドレスポンスと呼ばれる教会音楽のスタイルに通じるものです そして誰からも愛されるサックスの音色、また商業的な色合いが強い従来のスイングと違って、 カンザスシティジャズはヘッドアレンジと言われる、口頭の打ち合わせだけで演奏が進められました 曲のアイデアや細かな校正が楽譜に書き留められることは稀で、 ミュージシャンはごくシンプルな約束事だけをもとに一晩中即興演奏を続けました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 カンザスシティではよく帽子を使ってサウンドに強弱をつけます こんな風に使うんです するとほかのメンバーがリズムを。

【ナレーション】 カンザスシティには全米からミュージシャンが集まっていました レスター・ヤングはミシシッピから、ホットリップスペイジはダラスから、 スイーツエリソンはオハイオ州コロンバス、ジョージョーンズはイリノイ、 メアリールーウイリアムスはジョージア、ジェイマクシャンはオクラホマ州マスコギー、 そしてカウントベイシーことウィリアムジェームスベイシーはニュージャージー州レッドバンフから、 彼らに共通していたものそれはブルースでした

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 カンザスシティは中西部におけるジャズの中心地となりました まったく違う経歴を持つミュージシャン同士がどのように共同作業をおこなったんでしょう 彼らに唯一の共通言語それは12小節のブルースでした テンポとキーさえ決めれば12小節のブルースという枠組みの中で誰でも演奏に参加できます 一曲やるごとに斬新でエキサイティングなアイデアが次々と生み出されていきました そういう状態が延々何時間も続いたんです

【ナレーション】 そんなカンザスシティの中でも際立って優れていたのがカウントベイシーのバンドでした

【俳優:オシーデイビス】 泡のような男でした、シャンパン色の泡、それがベイシーです。 彼が音楽で表現したものは喜びでした 大いなる歓喜、溢れんばかりのエネルギー、しかもそこには子供のような遊び心があった 言うならば彼のジャズは子供が何人も集まった時の感覚に似ています 誰のためでもない自分たちが一時を楽しむために新しいゲームを作り出すような感覚 それがカウントベイシーの音楽です だからこそ彼は観客の血を湧き立たせることができたんです

【ナレーション】 ウィリアムジェームスベイシーは1904年ニュージャージー州に生まれました 父親は運転手、母親は息子にピアノを習わせる洗濯の内職をしていました そしてベイシーは子供の頃からエンターテイナーになりたいという夢を持っていました 学校を中退した彼は1924年にマンハッタンに移ります そこでハーレム流ストライドピアノの名手、ジェームズピージョンソンや、 ウイリーザライオンスミスから多くのことを学びました ハーレムの劇場でオルガンの手ほどきをしてくれたのは、同世代のファッツウォーラーでした それから2,3年の間にベイシーはあらゆる種類の音楽を演奏しました サイレント映画やボードビルショーの伴奏をつとめ、自分のバンドを作って巡業も行いました しかしそのバンドがカンザスシティにたどり着いた時とうとう資金が底をつきました ベイシーはカンザスシティに来るまであまりブルースに関心を持っていませんでした しかしこの街にあふれるブルースのサウンドを耳にするうちに心の中で何かが騒ぎ始めました そしてこう思いました。 これだ、これが自分のやりたい音楽なんだ ベイシーの社交的な人柄もあいまってバンドには優秀なミュージシャンが続々と集まってきました 中でも特筆すべきはリズムセクションです ドラムはジョージョーンズ、バスドラム、ハイハット、 ライドシンバルを自在に駆使してビートを刻む彼はどんな曲にも、新しいエネルギーを吹き込みました ベースはウォルターペイジ、その太いサウンドはバンドの屋台骨をしっかり支えていました ギターはフレディグリーン46年間も ベイシーと一緒に演奏を続けた彼は、決してソロを取らず完璧なリズムギターだけを刻み続けました ベイシー自身はピアノを弾きました 彼は自分の音楽についてこう語っています まるでバターでも切るように滑らかにスイングするのが本物のスイングさ そんな時はたったひとつの音でもスイングできる 地元のラジオ局は週に何度かクラブにマイクを設置してベイシーの音楽を放送していました ある夜のこと、放送が終わる数分前に、アナウンサーがベイシーに次の曲名を尋ねました それはブルーボールズと呼ばれる曲でしたがその言葉は性的な意味を持つ隠語だったため ベイシーは口に出すのを一瞬躊躇いました そして時計に目をやりこういいました 次の曲はワンオクロックジャンプだ それはやがてカウントベイシーの代名詞となる曲でした

【トランペッター:カウントベイシーオーケストラ:ハリー・スイーツ・エディソン】 譜面はなく全てヘッドアレンジでした エブリータブジョンズアイディア、アウトザウィンドウ ワンオクロックジャンプなどどれも楽譜はなく、私たちが即興でつくったものです ダンスフォード、エリントン、グッドマン、ウェッブなどのバンドは事前にアレンジが決まっていて ワンコーラスやるにも譜面がありました でもベイシーのバンドではスイングさえしていれば5コーラスでも、6コーラスでも好きなだけ演奏できました

【ナレーション】 有名なプロモーター、ジョンハモンドはカーラジオで耳にしたベイシーのサウンドにショックを受け、 シカゴからはるばるカンザスシティまで車を飛ばしました すでにベニーグッドマンとビリーホリデイをみいだしていたハモンドは、 ベイシーを新たなスターの座につけようと心に決めていたのです 1937年ビリーホリデイがシンガーとしてカウントベイシーのバンドに加わりました それはビリーにとって大きな転機となる出来事でした ビリーはベイシーをダディベイシーと呼び、 ベイシーはビリーのことをウィリアムと呼びました ベイシーはビリーの素晴らしい才能とエキセントリックな性格を共に理解していました ツアー中彼女は男のメンバーと同じように酒を飲み、悪態をつき、賭け事に熱中しました あるとき彼女はサイコロ博打で大勝ちしましたが、クリスマスに手ぶらで家に帰らなくてはならないメンバーのために金を貸してやらざるをえませんでした。 彼女はまるで男のようだった、女らしい男さ バンドのトランペッター、スイーツエディソンはそう語りました ビリーはギタリストのフレディグリーンと恋に落ちました 本気で愛したただ一人の男だったと彼女は語っています しかし彼女が最も親しく付き合ったのはレスター・ヤングでした 二人は恋仲になることなく生涯のほとんどを大切な友人同士として過ごしました ビリーはハーレムのジャムセッションでレスターと出会い、その音楽性に魅了されました メロディーだけでなく歌詞にも気を配り軽やかなサウンドを奏でる彼が、 自分にとって完璧な音楽的パートナーになることを直感したのです

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 二人は言わば音楽的な兄弟だったんです レスターはビリーのことをレディデイと呼び、 ビリーはレスターのことをプレストいうニックネームで呼びました 彼らの共演を聞くと二人が同じ世界にいることがよくわかります

【ナレーション】 プロモーター、ジョンハモンドの手によって実現したビリーとレスターの一連のセッション それはジャズの歴史にとって特筆すべき1ページとなりました

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 音楽を演奏している間はいわば別世界にいるようなものです とても抽象的な聴覚だけが鋭くなるような感じで他のメンバーの演奏を聴いてその全てを吸収しようとします 彼らの意識、彼らが何を感じているのか、何を話しかけてくるのか、どこへ行こうとしているのか、 そういったことを音の中から感じ取るんです でもプレイヤー同士の間に本当の意味での結びつきが生まれることはめったにありません 意外かもしれませんそれが現実です しかしビリーホリデイとレッサーヤングの間には真の絆がありました 二人は同じ情熱、同じ喜び、同じハートを持ちスイングを通じてそれを表現したんです

【ナレーション:メトロノーム誌の記事から】 去年だったか無名の新人を絶賛するこんな記事が載ったものだ 来年のナンバーワンはエラフィッツジェラルドだ 今はまだ無名だがその将来性は計り知れないものがある 彼女が新時代を代表する歌手になることは疑いようがない

【ナレーション】 ビリーホリデイと同様、エラジェーンフィッツジェラルドも恵まれぬ少女時代を過ごしました 義理の父親はエラを虐待し母親は彼女が14歳の時に亡くなりました 大きくなると彼女はハイスクールや教護施設から逃げだしました そして2年近くニューヨークでホームレス生活を続けましたが、 その間に街角で歌やダンスを披露してお金を稼ぐことを覚えました また生活のため他にもいかがわしい仕事をいくつも経験しました 1934年11月エラはハーレムにあるアポロ劇場のアマチュアコンテストに参加しました ヨレヨレの服に男物の靴という格好でスポットライトの中に踏み出したエラ、 アポロの観客は手厳しいことで有名だったので彼女はビクビクしていました ところが彼女が歌い始めるとたちまち大きな喝さいが沸き起こりました もちろん優勝者はエラでした 優勝者は劇場で一週間仕事を貰える事になっていましたが支配人はそれを拒否しました 彼女のルックスが悪いというのが理由でした その後も彼女は他のアマチュアショーやローカルバンドのショーにノーギャラで出演を続けました その頃有名なバンドリーダー、チックウェッブは美しい女性シンガーを探していました そのようなシンガーをバンドに入れることで活動の場がさらに広がると考えたのです そしてスカウト役の男性シンガー、チャールスリントンが自信をもって連れ帰ったのがエラフィッツジェラルドでした ウェッブはぎょっとしてこう言いました まさかそれをうちのステージにあげるつもりじゃないだろうな しかしリントンの強い説得にあって渋々エラを雇うことにしました 結果的にそれは彼の生涯最良の選択となりました エラのボーカルを前面に押し出したチックウェッブのバンドは次々と大ヒットを飛ばし始めたのです 彼らの曲はラジオでもジュークボックスでも劇場でも大いにもてはやされました エラの完璧なイントネーション、素晴らしいスイング感、 そして少女のような可愛らしい歌声は観客はもちろん他のミュージシャンをも魅了しました 1938年チックウェッブは30歳の若さでこの世を去りました しかし彼の作り上げたバンドはそのままエラと協力し合ってヒットを飛ばし続けました スイングのファーストレディというニックネームをもらったエラはその後も息の長い活動を続けていきます 1938年春、ある日曜の午後ニューヨークのランドルズアイランドにあるスタジアムに、24000もの人々が集まりました 史上初の野外ジャズフェスティバルを見るためにです フェスティバルの謳い文句はスイングのカーニバルでした 其のころアメリカではスイングのレコードがひと月に70万枚も売れ24のバンドが活躍していました そんなスイング全盛期に開かれたこのフェスティバルで最も大きな評判を獲得したのは カンザスシティからやってきたカウントベイシーオーケストラでした その前の数か月間に彼らはジャンピンアットウッドサイド、ブギウギ、シンギンデイジーチェーン、レディビーグッド、アウトザウィンドウ、ドッッギンアラウンドなどのヒットを連発しのりにのってるところでした

【作家:アルバート・マリー】 ベイシーのバンドが現れたのは1936年、翌年にはもう有名になっていました 彼がジャズに与えた影響は計り知れません 彼がジャズに持ち込んだものは正確なリズム、そしてビートでした それは決定的と言っていい影響を与えました

【ナレーション】 ベイシーのバンドは即興などジャズの本質的な要素を犠牲にしなくても ビッグバンドスイングが幅広い人気を獲得できることを証明しました しかしこのフェスティバルはある意味ビッグバンドスイングにとって最後のキラメキとなりました ジャズの主流となるスタイルは静かに後退しつつあったのです 第二次大戦勃発の翌月1939年10月テナーサックスをジャズの花形にした男 コールマンホーキンスがレコーディングスタジオに入りました 彼がその日に吹き込んだレコード、ボディアンドソウルはそれまでのジャズの演奏を覆す革新的なものでした

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 あのボディアンドソウルはジャズの究極的な傑作です 全部で32小節からなる曲ですが、ホーキンスは最初の2小節以外元のメロディを演奏していません 多くの人はそれを聴いて戸惑いました 彼は出だしで元のメロディを演奏するとすぐ独自の変奏をはじめました そして曲の終わりまでオリジナルとは違う、しかし実に見事なメロディを次々と奏でていったんです

【ナレーション】 ホーキンスのボディアンドソウルは白人黒人を問わず大評判となり 若いミュージシャン達に新鮮なインスピレーションをあたえました それはやがてジャズという音楽にかつてない変革をもたらすことになります ビバップの誕生、すなわちスイングジャズからモダンジャズへの大いなる飛躍を促したのです