JAZZの歴史|第7回

JAZZ|第07回|モダンジャズの誕生

YouTubeより引用 https://youtu.be/PEAvEggiD20

【ナレーション】 1939年夏 アルトサックスプレイヤーのチャーリーパーカーは、貨物列車に飛び乗り故郷のカンザスシティから一路ーニューヨークを目指しました。 ニューヨークに到着したパーカーはハーレムにあるサボイボールルームの看板を見上げこう思いました。 いつか必ずここで演奏してやる! 尊敬するピアニストのアートテイタムの演奏を聴けるという理由から、小さなクラブで皿洗いの仕事に着きました。 そしてチャンスを見つけてはジャムセッションに加わり、サックスの腕前を披露しました。 その年の12月、ダウンオールズチリハウスというクラブハウスでのセッションで、パーカーはそれまでにやったことのない新しい演奏を試してみました 。彼はメロディーではなく和音、コードを元にした即興を披露したのです。 それはジャズの歴史にとって大きなターニングポイントとなる出来事でした。 この演奏法によって、それまでのスイングジャズはモダンジャズへと進化したのです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 天才とは我々の理解を超えた魔法のような存在です パーカーはモーツァルトやシューベルトと肩を並べる正真正銘の天才でした 歴史的に見てもたった一人の天才が、音楽を完全に変えてしまった例は決して多くはありません

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 チャーリーパーカーは歴史上稀にみる複雑な性格の持ち主であり、 同時に 紛れもない音楽の天才でした 彼は周りのミュージシャンがやろうとしていることをすべて理解し、それに完璧に答えることができました

【ナレーション】 1940年アメリカ国民を苦しめてきた大恐慌はようやく終わりを告げましたが、 それに代わる巨大な影が忍び寄っていました ヒトラーのポーランド侵攻を発端に39年から始まった第二次世界対戦です アメリカはまだ参戦していませんでしたが若者たちの徴兵はすでに始まっていました 国民音楽となったスイングミュージックの人気はいまだ衰えることを知りませんでした しかしより新しい音楽の創造を目指すミュージシャンたちは、 ビッグバンドの演奏に飽き足らず仕事を終えた後、深夜のクラブに集まって自由なジャズセッションを行うようになりました その中心地となったのがハーレムの118丁目にあるミントンズプレイハウスでした 現状に不満を持つ冒険的なミュージシャン達がこの薄暗いクラブに集まり、 自分たちにとってよりリアルな新しいジャズを生み出そうとそうとしていたのです ミントンズを運営していたのはかつてのバンドリーダー、テディヒル彼はジャムセッションをやりたいと望むものにはタダで食事と飲み物を振る舞い野心的なミュージシャンお店に集めることに成功しました あるミュージシャンは言いました、商業的なバンドに所属する多くのプレイヤーは紛い物の音楽を演奏するのに飽き飽きしている 本当に素晴らしいアイデアは自分自身のために演奏する時に生まれてくるものなんだ まもなくミントンズはニューヨークの最先端を行く場所として評判になり始めました そんなミントンズの専属バンドの中に傑出した才能を持つ二人の若者がいました ピアニストのセロニアスモンクとドラマーのケニークラークです クラークはその驚くべきパワーとリズムでフロントにいるソロプレイヤー達を駆り立てました

【ドラマー:ジミー・コブ】 ケニークラークは左手でバスドラムを叩きながら、右手でシンバルを叩き、こんな風にビートを刻み始めました こうじゃなくてね ずっとそうでした

【ナレーション】 コールマンホーキンス、チューベリー、チャーリークリスチャン、ドンバイヤス、ミルトヒントン、メアリールーウィリアムス 皆夜明けまで続くジャムセッションの常連でした レスターヤングとベンウェブスターもしばしばミントンズでサックスによるバトルを繰り広げました あるバーテンダーはこう回想しています 彼らはまるで野良犬のように疲れ果てるまでサックスで戦い、それから母親に電話で一部始終を話していたものだよ トランペッターのロイエルドリッジもよく顔を出しましたが負けん気の強い彼は自分に挑戦してくる人間に対して強い警戒心を抱いていました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ロイエルドリッジのサウンドはとても内向的なものでした 外交的なアームストロングとは対照的です アームストロングのサウンドは活気に満ちていて光り輝くかのようでした それに対してエルドリッジは内向的で荒々しさや鋭さがありました まるで彼の肉声を聴いているかのようです エルドリッジのサウンドには体の奥底から湧き上がってきたという生々しさがありました

【ナレーション】 ある晩エルドリッジは彼の熱烈な崇拝者とジャムセッションすることになりました その男の名はジョンバークスガレスピー、後のディジーガレスピーです

【ギタリスト:ジョニー・コリンズ】 一人の男がステージに上がって演奏を始めたのを覚えています 私は演奏しているその男を見上げました 他の誰とも違うその男、ディジーガレスピーです

【ナレーション】 ディジーガレスピーはサウスカロライナ州のチェローという小さな町にうまれ レンガ職人の父親に殴られながら育ちました 彼は技術学校に通っている間にピアノを習得し、それをきっかけに音楽理論と作曲に生涯心を奪われることになりました ガレスピーの最初の仕事はフィラデルフィアのビッグバンドでした そこで同僚だったミュージシャンは彼の演奏をこう表しています まるでうさぎが野山を駆け回っているみたいな感じだった どんなキーでもそれは変わらなかったなぁ

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 初めて聞いたとき私は思わずこう言いました これ、聞いても仕方ないよ誰もこんな風に演奏できっこないんだから 彼の演奏はとてもリズミカルで洗練されていました それはまったく新しい演奏方法でした トランペッターは普通こんなリズムを取ります ところがディジーはこう なんだこれ?でしょ

【ナレーション】 ガレスピーは様々な音楽的実験についてこう語っています 今までにないコードの使い方を試して、ある音がいかに自然に響くか、あるいは以下に驚くような効果を上げるか知りたかったんだ またステージでの彼は激しい演奏を繰り広げたかと思うと、 他のミュージシャンのソロでダンスを始めることもあり、まさしく予想不可能な存在でした 1937年ニューヨークに行ってきたがガレスピーはキャブキャロウェイのバンドに入りますが、 そこでは自分の音楽性を生かすことができませんでした 彼はその鬱憤をミントンズのジャムセッションではらすことになります ガレスピーの自由奔放な音楽性は彼と同じくらいクリエイティブで才能のあるミュージシャン達を惹きつけることになりました そして1940年カンザスシティからやってきた一人のアルトサックスプレイヤーの噂が広がり始めました チャーリーパーカーです ドラマーのケニークラークは言いました 彼はそれまでに聞いたことのない演奏をした彼は私たちと同じ道を走っていたがはるか先を進んでいた ガレスピーは言いました 彼の演奏を聴いて思ったよ、彼の進んでいる道こそ、これからジャズが進むべき道なんだ

【作家:スタンリー・クラウチ】 ケニークラークは新しいドラミングスタイル、ディジーガレスピーとセロニアスモンクは新しいコードの演奏法をあみだしていました 彼らは新しいジャズを作るのに必要なリズムとコードを持っていました しかしそのリズムとコードにあう新しいフレージングのアイデアはまだ手に入れていませんでした それを持ち込んだのがチャーリーパーカーです 彼のフレージングは言うなればレンガどうしをくっつけるモルタルのような役目を果たしました パーカーが現れる前にあったものはいくつもの面白いレンガでした そこへパーカーが新しいアイデアを持ち込んだことで、それまでバラバラだったレンガが一つの建築物に仕上げられたのです ガレスピーも当時これからのジャズはパーカーの歩んでいる道を歩まなくてはならないと言ったほどです

【ナレーション】 チャールズパーカージュニアは1920年に生まれミズーリ州カンザスシティで育ちました 大酒飲みの父親はタップダンサーから列車のコックになった人物で、息子が11歳になる前に妻と別れました 13歳の時にサックスを買い与えてくれたのは母親のアリーでした 彼は家の近くにあるバーに通ってはアルトサックスプレイヤー、バスタースミスの演奏を真似しようとしました スミスは元のテンポの2倍の速さでソロを演奏するダブリングアップの名手でした

【作家:アルバート・マリー】 パーカーの音楽を味わうには彼がカンザスシティ出身であることを覚えておくべきです 彼の音楽的ルーツにはブルースがありました、彼が名プレイヤーのコールマンホーキンスやロイエルドリッジを唸らせたのは 他の誰とも違うやり方でブルースを演奏できたからです

【ナレーション】 パーカーは15歳で学校を辞め、地元のバンドに変加わりました その中で彼は酒を飲み、マリファナを吸い、さらにはコーヒーに覚せい剤を溶かして飲むようになっていきました そのような薬物依存の習慣は彼の残りの人生を大きく支配することになります 彼は16歳で結婚し17歳で父親になりました そして暇さえあればサックスの練習をし、チューベリーとレスターヤングのレコードを聴く生活を続けました 1936年パーカーはひどい交通事故に遭いました 彼自身は肋骨と背骨を骨折、同乗していた親友はなくなりました 彼はベッドの上で2ヶ月間を過ごし定期的に打たれるモルヒネによって心と体の痛みを和らげました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 その時を境に彼は大きく変わりました どこか冷めたようになり、妻とも友人とも母親とも心を通わせることができなくなりました まるで一気に年を取ったようでした ある日妻が帰宅するとパーカーは腕に注射針を刺していました 彼はわずか17歳でヘロインから離れられなくなっていたのです 彼は何週間も家に帰らず、帰れば妻の持ち物を売り払うようになりました そして妻に自由になれば俺は偉大なミュージシャンになれるはずだと頼み込み離婚を承諾させます その後ニューヨークにやってきたパーカーはダンウォールズチリハウスというクラブでのジャムセッションで驚異的な才能を世に示しました

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 チェロキーという曲は元々チャーリーバーネットのバンドがヒットさせたものです パーカーはチェロキーの構成やハーモニーを気に入り、何度も繰り返しその曲を演奏しました 彼によれば偉大な発見をしたのはその曲の演奏中でした パーカーはそれまでの音楽理論では考えられない音の組み合わせを使っても正しいハーモニーを奏でる事が可能だと気づいたんです その発見に基づいて彼は新しい演奏法を編み出しました 決まり切ったコード進行を打ち破ることで、より自由な演奏が可能になったんです ブルースっぽくやることもスイングさせることも自由自在でした 彼はスイング時代の決まりきった演奏法を打ち壊しました そして全く新しい豊かなメロディーとハーモニーをジャズという音楽にもたらしたんです

【ナレーション】 一度カンザスシティに戻ったパーカーはその後2年間ジェイマクシャンの率いるビッグバンドで演奏しました ニューヨークで大きな成長を遂げたパーカーの演奏に誰もが驚きの声をあげました パーカー独自の演奏スタイルは豊かなイマジネーションにあふれていましたが その斬新さとスピーディーさに他のメンバーがついていけない事もしばしばでした パーカーよりも年上のサックスプレーヤーたちは彼の無表情な顔つきや、 大勢の客の前で演奏するのを嫌がる性格をあまり快く思いませんでした しかしパーカーのすさまじい演奏はミュージシャン仲間の間で瞬く間に評判になり、 カンザスシティを訪れたミュージシャンは必ず彼の演奏を聴きに来るようになりました

【作家:スタンリー・クラウチ】 パーカーはジャズをより複雑な音楽にしました 彼のアルトサックスから出る音は、ジョニーホッジスやベニーカーター、ウィリースミスのようななめらかな音ではありませんでした 彼の音は鋭くハードで中には情緒を欠いた音だと批判する声もありました

【ナレーション】 1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃によって、 ついにアメリカの第二次世界対戦に参加することになりました そしてジャズは戦地でも鳴り響きました 明るいスイングのサウンドには兵士たちの心を慰める力があったからです

【ナレーション】 ジャズ専門誌のダウンビートはこう書いています 今日のバンドマンはただのジャズミュージシャンではない彼らは音楽の兵士なのだ

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 スイングという音楽そしてスイングバンドの偉大なリーダーたちは アメリカという国に固有のものは何か民主主義とは何かをアメリカ国民に教えてくれました ベニーグッドマンやアーティショーがユダヤ人だったのは偶然ではありません カウントベイシーやデュークエリントンやジミーランスフォードが黒人だったことも、 白人の観客が彼らを受け入れたこともです それはアメリカという国が持つ特別な何かを浮き彫りにしました 戦争が始まるとそれは一層明らかになりました なぜなら第二次大戦はナチスのユダヤ人虐殺に見られるように民族浄化という一面を持っていたからです そしてジャズはアメリカンスピリットの象徴とみなされるようになりました 若くて活気に満ちた国の自由とスイングの精神です ダンスの仕方や音楽の聴き方がアメリカ人を表現していました ジャズは純粋にアメリカの音楽なんです

【ナレーション】 しかしアメリカの参戦によってジャズは大きな危機に直面しました まず戦時下の10日管制、深夜の外出禁止令、重い遊興税などによってナイトクラブやダンスホールなどの経営が行き詰まりました ゴムとガソリンが配給制になって車が使いにくくなり、 鉄道も移動する兵士たちで溢れていたためバンドはツアーにに出ることが難しくなりました レコードの原材料の不足からレコーディングも減り、企業はジュークボックスや楽器の製造を停止しました 武器などの生産が最優先され戦争に直接必要ないものは後回しにされたのです 優秀なミュージシャンが次々と徴兵されていった為、バンドはその穴を経験の浅いメンバーで埋めざるを得ませんでした バンドリーダーのトミードーシーはこうこぼしました。鼻もかめないようなガキに週500ドルも払ってるんだぜ しかしスイングはそんな厳しい状況に耐え抜きました そして戦争中のアメリカ人の心にもう一つの国家のように鳴り響いたんです

【ナレーション】 戦争中の一時期にはバンドリーダー39人が陸軍に、17人が海軍に、3人が小船隊に、2人が沿岸警備隊に入隊していました グレンミラーのインザムードそんな時代を象徴する曲です 空軍に入ったミラーは優秀なプレイヤーを集めて軍楽隊を作りましたが、イギリス海峡上空で帰らぬ人となりました スイングの王様ベニーグッドマンは背中の怪我のため徴兵を猶予されましたが、 他の多くのミュージシャンとともに慰問活動に積極的に参加しました アーティショーは海軍の軍楽隊を率いて南太平洋でツアーを行いました ひどい暑さと湿度で楽器が駄目になったり17回も日本軍の攻撃を受けたりしましたが なんとか生き延びて前線の兵士達に音楽を送り届けました

【ナレーション】 戦争がはじまったときエリントンは既に42歳だった為徴兵されませんでした しかし彼は国の為にできる限りの協力をしました 臨時国債を売るためのラジオ番組、デュークとの土曜のデートでホスト役を務めたのもその一例です この時期エリントンの音楽はかつてないほど豊かなものとなりました 理由の一つは彼のバンドに新しく加わった人物にありました 戦争が始まる前、ツアーに出かけたエリントンはピッツバーグでビリーストレイホーンというピアニストと出会いました ストレイホーンはわずか23歳 小柄でメガネをかけ、夜は音楽の仕事をしながら昼はドラッグストアの店員として生計を立てていました 彼はエリントンのナンバー、ソフィスティケイテッドレディを独創的に弾きこなし優れた作曲活動も行っていました エリントンはニューヨークで彼と再会することを約束します 次に二人があった時ストレイホーンは新しい曲を書き、アレンジも仕上げていました その曲はハーレムにある自分のアパートまで、 地下鉄でどうやって来ればいいかというエリントンの説明にインスピレーションを得た曲でした

【ナレーション】 A列車でいこうは大ヒットしエリントン楽団のテーマ曲となりました そしてストレイホーンは生涯にわたるエリントンの音楽的パートナーとなったのです 二人は全く違うタイプの人間でした ストレイホーンは暖かく社交的でゲイ、エリントンは内気で謎めいていて女好き しかし素晴らしい音楽を作りデュークエリントン楽団をより偉大なものにしようという目的は同じでした エリントンはこう言ってストレイホーンを絶賛しました 彼は私の右腕であり、左腕であり、頭の後ろについているすべての目だ 私と彼はお互いにノウハウを共有しているんだ

【エリントンの孫娘:メルセデス・エリントン】 祖父のデュークが誰よりも敬愛していた人間が二人います 一人は祖父の母親で、もう一人がビリーストレイホーンです 二人の創造性の中心にあったものは最高の音楽的パートナーを見つけたという喜びだったと思います その喜びによって二人はお互いの才能の最も良い部分を引き出しあったんです

【シンガー(エリントン楽団):ジョヤ・シェリル】 あれは音楽的な結婚のようなものです、デュークとビリーほど心が通じ合ってるコンビはみたことありません 彼らはとても親密に付き合いお互いを豊かにしました だから音楽に対するアイデアを共有することができたんです

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ごく短期間のうちにストレイホーンはエリントンの代理としてバンドの指揮をとったりピアノを弾いたりするようになりました 最も重要なのは彼の作曲したナンバーが増えたことです 事実彼はあの時代のジャズ界ではエリントンにつぐ名作曲家でした 二人は共同で作曲をおこない組曲から短い曲まで多くの作品を作りました それはとても親密な共同作業でした

【ナレーション】 エリントンとストレイホーンはその後ほぼ30年にわたってこのような共同作業を続けていきます

【エリントンの孫娘:メルセデス・エリントン】 とてもプライベートな関係でした それがどんなものであったか知っているのはあの二人だけです ストレイホーンに出会うまで音楽的な面で祖父は孤独な人でした 自分と同じレベルで考えを共有できる人間がいなかったからです もしモーツァルトに音楽的パートナーがいたらどうなっていたか想像してください それは彼の音楽新たな出発点になったでしょう 何も言わなくても自分と同じアイデアをうみ出せる相手がいる フィーリングだけで意思の疎通を図ることができる それは本当に大きな喜びだったはずです

【ナレーション】 ルイアームストロングは戦争が始まった時すでに40歳だったためエリントンと同様徴兵されませんでした しかし彼は出来る限りのことをしました 遠く離れたキャンプや訓練基地、病院などを積極的に訪れては慰問活動を行ったのです 彼の生活の大半は以前と同じくツアーでしめられ自宅に帰ることはめったにありませんでした しかしこの頃アームストロングは元ダンサーのルシールウィルソンと幸せな結婚をしていました 彼女はアームストロングが地方まわっている間にクイーンズ地区に新しい家を建てました ツアーが終わって新居の前に立ったアームストロング、しかし彼はそれが自分の家だとはにわかには信じられませんでした 彼はこう回想しています ベルを鳴らすとドアが開いた 薄いシルクのナイトガウンを着て戸口に立っていたのは誰だと思う? 少年時代からアームストロングの憧れだった、温かく落ち着いた家庭、彼はようやくそれを手に入れることができたのです

【ベーシスト:アーベル・ショー】 私は歌を聴くとき表面的な声の響きよりも、その内面にある感情の方に耳を傾けます 例えばルイがザッツマイホームのような歌を歌うときはこんな具合です。 彼がとても感情をこめて歌うので私は涙を堪えるのに苦労しました 毎晩そうでした、彼の歌はとても芸術的で感情に溢れていました 大切なのは感情です それが彼を単に偉大なシンガー以上のものにしていました ルイは所謂美声の持ち主ではありませんがその歌には心がり魂がありました

【ギタリスト:ジェイ・マクシャン】 チャーリーパーカーの演奏中他のミュージシャンはよくこう叫びました リーチ、リーチ、とことんまで行けというニュアンスです みんな彼の潜在能力がどれほど底知れぬものかを理解していたんです パーカーにリーチ、リーチと声をかけ続ければとても不可能だと思えることも平気でやってのけました 彼はそういう男でした、どんな不可能でも可能にしてしまう 尽きることを知らない才能に満ちていました だから他のミュージシャンは彼に声をかけ続けたんです

【ナレーション】 ドラッグ中毒のせいで徴兵されなかったチャーリーパーカーは 1942年の末にジェイマキシャンのバンドを離れアールハインズのビッグバンドに加入しました その頃ハインズのバンドにはジャズの新たな地平を切り開こうと夢見る若いミュージシャンたちが顔を揃えていました サラヴォーン、ビリーエクスタイン、ビジーガレスピーなどです パーカーをハインズに推薦したのはガレスピーでした しかし他のメンバーはパーカーの強烈な個性に戸惑うことも多かったようです

【作家:スタンリー・クラウチ】 パーカーがアールハインズのバンドにいた時、彼は他のメンバーにピンを渡しそれを上着に入れておくよう頼んだようです 理由を尋ねると彼はこう答えました、ソロの順番が来たとき俺が居眠りしていたらそのピンで足を刺してほしいんだ 普通は肩を叩けとかいうもんでしょう? でも彼は足にピンをさせと言ったんです その痛みで目を覚ました彼はそのままソロを吹き始めました

【ナレーション】 チャーリーパーカーがハインズのバンドに変わったことで彼とディジーガレスピーは毎晩共演できるようになりました ガレスピーはこう振り返っています ツアーを続けるうち私とチャーリーの間に何か特別なものが生まれ始めた 私たちはいつも一緒だった ステージを降りればジャムセッションをやり、ホテルに帰っても部屋で一緒に演奏をした

【サックスプレイヤー:ジャッキー・マクリーン】 二人は一緒に練習しアイデアを練りました 今までにない新しい何かを表現したいと願ったんでしょう 他のミュージシャンではとても演奏できそうにない難しいアイデアや、キーや、コード進行をステージで演奏したいと考えたんです

【ナレーション】 二人の才能がぶつかり合って生まれる音楽的エネルギーはとてつもないもので他のメンバーはそれについていくことができませんでした しかし1942年ミュージシャン達の所属するアメリカ音楽家連盟とレコード会社との間に印税の支払い方法を巡る対立が発生 連盟側はレコーディングをボイコットし新たな録音は一切行われなくなりました この問題が全面的に解決しミュージシャン達が再びスタジオに戻ってくるのは二年以上あとです そのためパーカーとガレスピーの新しい演奏法、 後にビーバップと呼ばれることになるスタイルが広く世間に知られるまでには今しばらくの時間が必要とされたのです