JAZZの歴史|第5回

JAZZ|第05回|スイング時代の到来

YouTubeより引用 https://youtu.be/etEVmCk1LL0

【ナレーション】 1930年代半ば、ジャズはアメリカに熱狂的なダンスブームを巻き起こします。 スイングの軽やかなサウンドは、ハーレムのダンスホールで流行に敏感な若者たちを引きつけました。 黒人が生んだ荒削りな音楽、「ジャズ」は都会で洗練され、今やアメリカの大衆音楽の座に近づいたのです。 スイングの弾ける興奮と快感に身も心もしびれる若者たち。大恐慌の時代ホールの外に明るい話題はありませんでした。社会の閉塞状況スイングへの熱狂、二つは時代の表と裏を成していたのです。 冷たい不況風の中、スイングミュージックはレコード業界を救う救世主となりました。 1932年、アメリカで販売されたレコードはおよそ一千万枚それがスイングの人気を反映して、1939年には5000万枚にまでに伸びたのです。 スイングはハリウッド映画にも使われ、そのサウンドはラジオやジュークボックスをつうじて、アメリカ中の街のメインストリートで流れていました。 スイングは時代の気分を醸し出す音楽として、この時代を生きたすべての世代に、忘れがたい思い出を刻みました。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 人は誰でも十代半ば、思春期の頃に夢中になった音楽に、生涯強い影響を受けるものだと思います。私の場合それは スイングでした。 スイングは私の青春、私の巣立った心の故郷です。その魅力は何十年経っても褪せることありません ちょっとした慰めが欲しいとき、私は今もこの音楽の元に帰って行きます。

【ナレーション】 1930年代はじめ、アメリカの失業者は1300万人を突破。 ルーズベルト大統領は新規まき直し、ニューディール政策によって景気回復に努めました 。 ベニー・グッドマンの「ブルー・スカイ」はそんな1935年ごろの大ヒットナンバーでした。

【ライター:ジェームズ・マー】 歌は当時の思い出を鮮やかに呼び覚まします。 この曲は確かジャズがダンスホールの垣根を越えて、家庭のリビングルームに入っていた最初の曲でした。 ブルースカイとともにベニーグッドマンは彗星のように現れました。 この曲は元々はジャズではなく作曲家、アービング・バーリンの書いた国民的愛唱歌でした。 だからこそベニーの演奏は、すんなりと人々の心に届いたんです。

【ナレーション】 ベニー・グッドマン。 ユダヤ系移住者の二世としてシカゴのスラムに育った無名のミュージシャンは、1935年、ロサンゼルスのホールで予想外の大成功を収めました。 以来その人気はとどまるところを知らず、カリフォルニアではレコード売り上げ1位を達成します。 ベニーは26歳にして一躍、スイングの王様と呼ばれるようになり彼が行くところ、女性ファンが群がりました。

【クラブ経営者:ロレイン・ゴードン】 私ももうベニーに首ったけでした。 とにかくかっこよくて、ただ立っているだけでも素敵でした。彼にはスター気取りなところがなくいつもクールでした。16か17の少女にとって憧れの人だったんです。 私はラジオのボリュームをいっぱいに上げて、ベニーの曲を聴きました。その度に母が腹を立てて「何してるのっ」て叫びました。 よく親子で言い合いになったもんです。

【ナレーション】 1937年3月、 ベニー・グッドマン楽団はニューヨーク、タイムズスクエアのパラマウント劇場に、2週間の契約で出演します 。それは彼の人気の凄さを世間にアピールする出来事となりました 。 パラマウント劇場は、アルコールがつきもののダンスホールとは違い、未成年でも入場することができました。 そのため、憧れのヒーローを一目見ようと高校生たちがどっと押し寄せたのです。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 講演の初日、地下鉄の駅からタイムズスクエアに向かう通りには、若者たちが列をなし、ひしめき合っていました。 警察官も一体何事だと言って慌てふためいていましたよ。

【クラブ経営者:ロレイン・ゴードン】 はじめて聞く生のビートに、皆しびれました。席から立ち上がり見知らぬ人と一緒に踊りだしてしまったんです。 あんな痛快な音楽は初めてでした。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 若者たちは興奮して通路で踊りだしました。中にはステージにまで飛び上がるものもいました。 このコンサートは世間で大変な評判となりました。 ベニー・グッドマンは単なる人気ミュージシャンの枠を超えて、大衆文化のヒーローの座に就いたんです。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ベニーには確かにオーラがありました。 一見物静かで紳士風の彼がクラリネットのソロを始めた途端、突然飛び跳ね、反り返って音楽に没頭してしまう。 まるで催眠術にかかったみたいでした。 それは決して見せかけではなく、ベニーのスタイルだったのです。

【ライター:ジェームズ・マー】 ベニーの人気はまさに「爆発的」といった言葉がぴったりでした。 ジャズシーンに登場したての頃、彼は全く無名でした。 誰もそんなに注目してはいませんでした。 それが突然頭角を現し、デュークエリントンや他の大物たちをしのぐ人気者となったんです。 一種のカルトミュージックに過ぎなかったジャズは、彼によってアメリカの大衆音楽になりました。 それがベニー・グッドマンの果たした偉大な功績です。

【作家:アルバート・マリー】 エリントンはジャズとは黒人のフィーリングを、リズムとメロディーに乗せたものだと言っています。 それは黒人たちの歴史や生き様を抜きには語れません。 あのしなやかなメロディー。 エリントンの奏でる世界には、どのような逆境にあっても負けまいとする毅然とした態度、あの時代の黒人たちのアメリカンスピリットが込められていました。 彼は常にクリエイティブであろうとし、そのための挑戦を恐れませんでした。 彼の音楽は時に実験的でさえありました。現状にとどまることを嫌い、前だけを見ていたんです。

【ナレーション】 デューク・エリントンは決して、ベニー・グッドマンなどの白人スイングバンドにケチをつけたりしませんでした。 しかし彼はその人気には追随せず、冷ややかに述べてています。 「ジャズは音楽だがスイングはビジネスだ」

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 あの時代はまだ、黒人への差別は強烈であからさまでした。 デューク・エリントンのように誇り高い人にとって、世間のあしらいは耐え難い屈辱だったことでしょう。 彼は決して声高に不満を言うタイプではありませんでした。しかし彼の音楽は雄弁です。 そこには人間としての誇り、自らの才能への自信、そして音楽の世界に黒人が多大な貢献をしたという自負がみなぎっています。

【ナレーション】 当時は、エリントンのような演奏家でさえ、公演先のホテルで宿泊を断られることは珍しくありませんでした。 「不平を言うためのエネルギーは、全て音楽に向ける」 あるインタビューでの彼の言葉です

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ビッグバンドのスイングは、アメリカの土壌が生んだアメリカのサウンドでした。 アメリカに大衆音楽と呼べるものが現れ、一気に花開いたんです。何よりの魅力は歌って踊れる音楽であること、そして新しいメディアであったラジオが、バンドの演奏をいきいきと伝えました。 人々はそれを聞きながら、ニューヨークのローズランドやコットンクラブなど、華やかな都会への憧れをかきたてたんです。

【ナレーション】 ベニーグッドマンの驚異的な成功に続けとばかりに、1930年代の後半には数十ものビッグバンが音楽シーンを賑わせました。 映画館、ダンスホール、ラジオ、人々の身の周りには常にビッグバンドの軽快なサウンドが流れていました。 こうしてジャズが母体の「スイングミュージック」は大衆の好みに応じて、より小粋でポップな響きを強めていきます。 ジミー・ランスフォード楽団は、洗練されたショーマンシップをいち早く演奏スタイルに取り入れました。 彼らのステージからは、プレイヤーが演奏を楽しんでる様子がありありと伝わってきます。 曲が始まると聴衆はたいがいじっとしていられず、立ち上がって踊り出しました。 プレイヤー達の正確で息の合った演奏は、夜ごとダンスフロアを大いに盛り上げました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 彼らは最高のショーバンドでした。 メンバー全員が品のいい衣装をスラリと着こなし、演奏技術も確かで、とびきりかっこよかったんです。 ボーカルを交えたり、コミカルな振り付けを加えてみたり、トランペットを空中に放り投げてキャッチするという決め技までありました。

【クラリネットプレーヤー:アーティ・ショー】 ジミーは仕事をとても大切にする人で、その思いをメンバーの全員に浸透させていました。 スター歌手が参加した時も、決して一人だけを際立たせることなく、全体のアンサンブルを大事に組み立てました。 バンドはそのチームワークで常に絶好調を維持したんです。

【ナレーション】 トロンボーン奏者のトミー・ドーシーはその繊細で美しい音色と、知的な風貌が魅力でした。 しかしスイング界のセンチメンタルなジェントルマンという評判とは裏腹に、本人は演奏仲間と喧嘩の絶えない、大酒のみの凄腕リーダーだったようです。 彼が結成した楽団には、一流のプレイヤーたちが集い、質の高い演奏を繰り広げました。 共演者の中にはニュージャージー州出身のスター、若き日の「フランク・シナトラ」もいました

【クラリネットプレーヤー:アーティ・ショー】 トミー・ドーシーは卓越したミュージシャンでした 。 彼のトロンボーンは誰にも真似できない、彼はトロンボーンを歌う楽器に変えたんです。 それまでのトロンボーンの演奏と言えば、 「例えばこう」 それに対し、トミーのは繊細なメロディーです。 彼のブレスコントロールの技や質の高い演奏は、今日過小評価されていると思います。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 トミー・ドーシー楽団は、音楽的二面性を備えたバンドです。彼らはジャズとポップスを同時に追求していました。 センチメンタルなメロディーも、キレのいいジャズのサウンドもこなせたのは、一流の奏者を揃えていたからでしょう。

【ナレーション】 そしてもう一つ、傑出したトロンボーン奏者に率いられたバンドが登場しました。 グレン・ミラー楽団はいつの時代にも最高のスイングバンドの一つに上げられてきました。 彼は均整のとれたアレンジと豊かなショーマンシップで、若者から大人までを魅了しました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 グレン・ミラーの音楽は、エリントンやグッドマンにすらついていけなかった大衆を取り込みました。スイングは完全に国民のものになったんです。 多くの世代はあの時代の思い出を振り返るたびに、グレンミラーのロマンチックな響きを思い浮かべます。それほど時代にフィットしていたんです。

【ナレーション】 グレン・ミラーと彼の楽団はその先何年もヒットを飛ばし続けました。真珠の首飾り茶色の小瓶インザムードなどスイングの定番となる曲ばかりです 。 しかしスイングは褒められてばかりではありませんでした。過激で挑発的な若者たちのダンスに、一部の大人は眉をひそめました。 著名な精神科医であるブリル博士は、ジャズは精神に危険な作用を及ぼすと憂慮しました。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 若者には常に反逆者であろうというきぶんがあります。大人には理解できないことをするのが快感でした。 大人達が眉をひそめたのは、例えばジルバのダンスです。 当時女の子達のスタイルは短目のスカートにソックスと決まっていて、くるっと回るたびにスカートの裾が広がるんです。 今からみれば大したことじゃないが、当時は見ていて胸が躍ったものです。

【ナレーション】 今や人気絶頂のベニーグットマン。 その彼が自分のレコードの中で最も気に入っていたのは、「ボディアンドソウル」という美しいトリオの曲でした。 しかし彼は、その演奏をライブで行うことを頑として拒み続けていました。 それはピアニストのテディ・ウィルソンが黒人だったからです。 テディ・ウィルソンはインテリの家庭に育った都会的で温和な青年でした。 彼の軽やかなピアノタッチは、ベニーグッドマンの演奏と心にくいほどマッチしていました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 テディ・ウィルソンの弾き方は独特でした。 彼以前のピアニスト、例えばデューク・エリントンもそうですが、そのタッチは鍵盤を一種の打楽器のように扱います。 一方テディの音は、羽のように軽く抒情的です。 繊細な鈴の音のようなサウンドが鍵盤からこぼれてきます。 しかも猛烈に早い。 二小節も聞けば、これはテディ・ウィルソンだなとわかるくらい独特な演奏でした。

【ナレーション】 グッドマンは1934年に、あるジャムセッションでウィルソンと初めて共演しました。 「我々はまるで一つの頭で考えているみたいだった」と、彼は後に回想しています 間もなくグッドマンはウィルソンをスタジオによび、ドラマーのジンクルーパーとトリオでレコーディングを開始しました。 コンサートのプロモーターは、何度かウィルソンを彼のステージに加えるよう提案しました。 しかしグッドマンはためらい、答えをしぶりました。

【プロモーター:ヘレン・オークリー・ダンス】 私は是非テディを呼びましょうよ、凄い呼び物になるわって言いました。でもベニーは大反対でした。 「私はそこまで愚かじゃない。これまでたくさんのヒットを飛ばし、順調に実績を積んできたのに、黒人と共演して評判を台無しにしたくないんだといいました」

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 一言彼を庇うなら当時は大恐慌だったんです。 シカゴの貧しい街に育ったベニーが、せっかく掴んだチャンスを失うかもしれないと恐れたのは無理もなかったでしょう。

【ナレーション】 グッドマンは思い悩みました。 彼は確かに、黒人ミュージシャンの演奏から強い影響を受けてきました。 やがて最高のメンバーで演奏したいというアーティストとしての欲望が、ためらう気持ちに勝っていったのです。

【ライター:ジェームズ・マー】 ステージ以外では黒人と白人のミュージシャンは頻繁に交わり、深夜のジャムセッションで共演する事もしょっちゅうでした。しかしグッドマンはついに黒人であるショービジネスの世界、ステージの真ん中に引っ張り出したんです。

【ナレーション】 グッドマンは、はじめてトリオで生演奏した時の感激を、生涯忘れられませんでした。 三人はまるで一緒にプレイするために生まれてきたかのように、息がぴったりとあっていました。 テディ・ウィルソンもまた、兄弟といるように心地よい演奏だったと語っています。

これを境にベニー・グッドマンは偏見を捨てました。 黒人だからというだけで、有能なミュージシャンをステージの外に置くのはもったいないと気づいたのです。 彼はロサンゼルスのくたびれたバーから、さらなる逸材を引き出します。 ライオネル・ハンプトンはビブラフォンの名手でした 。グッドマンのトリオはカルテットとしてパワーアップします 。 毎晩そこでは、信じがたい音楽が繰り広げられている。そこには一つの音のミスもない。一人がソロを終えると次のプレイヤーが素早く引き継ぎ、残りの3人はバックで完璧なサポートをする。 彼らの湧き上がるインスピレーションは留まるところを知らない 。

まさに瞬間の芸術作品 。 集団による即興演奏の理想である。 それはまた、人が社会で共に働く際の、最も調和した姿と言える。

カルテットの演奏は高く評価されました。 しかし、白人のバンドでグッドマンの勇気を見習うものは少数でした。 人種の壁は、なお険しくそびえていたのです。

【ナレーション】 1935年、デューク・エリントンはある無名の歌手を見いだし、シンフォニーインブラックという短編映画に出演させました 。 歌手の名はビリー・ホリデイ。19歳にして人生の苦労を積み重ねた女性でした 。

彼女は1915年、アメリカ東部のボルティモアで生まれました。 両親は結婚しておらず、彼女は親戚に預けられて貧しい子供時代を過ごしました。 父親のクラレンス・ホリデイはギタリストとして各地を渡り歩き、娘や家庭をかえりみようとはしませんでした。 流れ者の父への思いからか、彼女もまたヤクザな男たちを愛し、翻弄される人生を送りました。 12歳の頃には港町で娼婦として働き、酒場では蓄音機の音に合わせてルイ・アームストロングや、レッシ・ースミスの曲を歌っていました。 13歳で大都会ニューヨークへ出て、ハーレムの小さなクラブなどで歌います 。このころ彼女は父親の苗字を勝手に取ってビリー・ホリデイと名乗りました。 1933年、ビリーの出演するクラブにプロモーターであり著名なジャズ評論家である、ジョン・ハモンドが偶然立ち寄りました。 ハモンドはまだ十代のビリーの声と貫禄に目を見はりました。 ビリーの声域は1オクターブと少しだけ、しかし彼女は歌のリズムを微妙にずらし、自分流に歌いまわす技を心得ていました。 歌のテンポを揺らしたり、節回しを微妙に変えたり、彼女にかかるとメロディはジャズの香りを漂わせました。 彼女には声を楽器のように扱うセンスがありました。 プロモーター、ジョンハモンドの計らいで、彼女はテディウィルソンをリーダーとするすばらしいプレイヤーに囲まれてレコーディングに臨みました。

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】 ビリーのあの独特の声の歪み、音符より先に出たり遅らせたりするセンス、天性の才能としか言いようがありません。彼女の初期のレコードにはとりわけある種の物憂さ、ブルースのフィーリングが満ちています。 生きることの辛さや苦さと、どこかあきらめを含んだ明るさが、微妙にバランスを取り合っているんです。 彼女はとてもウィットにとんでいました。 アファインロマンスや初期の歌では、彼女の声はまるで管楽器のように自在に鳴り響いています。 それはつらい人生を送ってきた、ビリーの数少ない幸せの時だったんです。

【ナレーション】 ビリーの性格について、幼い頃から知る女性はこう語っていました。 彼女は強情で、誰に対しても人生に対しても、お構いなしだった。 ステージの外のビリーは、人の忠告を聞かない困りものでした。 彼女はまさに自由奔放、喧嘩騒ぎ、大酒、男とのトラブル、同性愛、麻薬、あらゆるスキャンダルを撒き散らしたのです。しかしその破滅寸前の人生から、憂いと優しさを含む芸術が生まれました。 ビリーは、自分の生きた証をジャズの歴史に永遠に刻み込んだのです。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ビリー・ホリデイの歌声には、二人の偉大な先人ベッシースミスと、ルイ・アームストロングの精神が息づいていると感じます 。 ベッシーの持つ炎のような情感と、ルイ・アームストロングの知的なセンスが一つに溶け合ってるんです。 ビリーは、人がいきることの美しさも、醜さをも受け止める、しなやかな感性を持っていました 。 彼女のブルースには人の心の痛みがにじみ出ている。

人生とは苦いもの。 けれどその声は優しく力強い。だからこそ人はビリーに引き付けられるんです。

【ナレーション】 そのころニューヨークにはスイングの王様ベニー・グッドマンと並び称される、一人の黒人ミュージシャンがいました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 チック・ウェッブには欠失した才能の持ち主でした。 背骨が変形する病気にかかっていて、体が小さかったにもかかわらず文句なしに素晴らしいドラマーでした。 彼がドラムをたたくときは、ドラムセットを舞台に釘付けしなくてはなりませんでした。 フットペダルを踏む力が強すぎて、バスドラムを倒してしまうからです。

【ドラマー:スタン・リービー】 チックウェッブは私が見た最初のヒーローでした。 12歳の時私は父に連れられて劇場にいきました。 ドラマーの姿を探すと、そこに見えたのは巨大なバスドラム。その上からニョキっと頭が出ていて、回転する二本の腕が聞いたことのない素晴らしいリズムを叩き出していたんです。

【ナレーション】 1937年5月、グッドマンとウェッブの勝負がニューヨーク、ハーレムのサボイボールルームで企画されました。 この世紀のバンド合戦を見ようと、当日は四千人を超えるファンが押しかけました。

【ダンサー:フランキー・マニング】 ベニー・グッドマンとチック・ウェッブの対決の夜、それは本当に鮮烈の一夜で、サボイボールルームは人々の熱気でむせかえるようでした。 一方にはスイングの王様ベニー・グッドマン、 もう一方にはこちらもスイングの王様と呼ばれるチック・ウェッブ その二人が対決するんですから、いわば王座をかけた戦いです。

グッドマンは文句なしの巨人でした。 スイングをやるミュージシャンなら誰でも彼のレコードを買ったし、その名を知らぬ者などいませんでした。 ただしベニーグッドマンのバンドとチックウェッブのバンドの編曲が、ほとんど同じであることに気づいた人はあまりいなかったようです。 二つのバンドがそれぞれのバンドスタンドに立ちました。同じ編曲で演奏することでどちらが最高のバンドか明らかになるわけです。

【ダンサー:フランキー・マニング】 私の感想では、チック・ウェッブがグッドマンを圧倒していました! 【ダンサー:ノーマ・ミラー】 私もそう思ったわ! 【ダンサー:フランキー・マニング】 それが率直な感想です。 何もチック・ウェッブをえこひいきしてるわけじゃないですよ。 ただ彼のほうが、明らかにベニー・グッドマンよりもスイングしているように思えたんです。 証拠もありますよ。私はチックのプレー中にグッドマンのバンドに目をやったんですが、メンバーも立ったまま首を振っていました。 こりゃかなわんってね

【ナレーション】 グッドマン楽団のドラマー、ジーンクルーパは、チック・ウェッブは私を粉砕したと語り、素晴らしいライバルに心からの賛辞を送りました。 それはスイングの王座を黒人が再び手にした夜とも言われます 。

スイングは大衆文化の一部となり、眩いネオンの似合う洗練された響きをそなえました。 しかしビッグバンドが次第に形式にとらわれ、ジャズ本来の自由闊達さを失っていくのを、一部のファンは鋭く感じ取っていました・ ジョン・ハモンド、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイをプロモートしたジャズ界の有力者は、商業化しすぎたジャズへの非難を早くから口にしていました。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 大人気のバンドですら売れる曲をというプレッシャーに苦しみました。 ベニーグッドマンはレコードに楽器だけのジャズと、ポピュラー風のボーカル曲をあわせて録音するようにしていました。 最も商業的に成功していたのはグレン・ミラーで、多くのビッグバンドはその壁を打ち破ることを求められていたんです。

【ナレーション】 1936年の冬、ジョン・ハモンドはシカゴのホテルでベニー・グッドマン楽団の演奏を聴いていました。 彼は飽き飽きして会場を後にします。 そして何か新しい刺激、新鮮な演奏はないものかとラジオのスイッチをひねりました。

ちょうどカンザスシティの放送局が生演奏を流している最中でした 夜中の1時、カウント・ベイシーの夜ごとの中継がちょうど始まったところだった。 私は自分の耳を疑った。 カウント・ベイシー。 いわゆるカンザスシティサウンドはスイング全盛の時代からまた一歩前へ出ようとしていました。