JAZZの歴史|第3回

JAZZ|第03回|狂乱のジャズエイジ

YouTubeより引用 https://youtu.be/Fz1VH8t38ug

【ナレーション】 黒人がこれ程注目されるとはどういうことだろう。 これまでも白人は黒人のエンターテインメントを楽しんできた。でもそれは気晴らしとしてだ。 それがいま、白人は黒人のエンターテインメントに、単なる気晴らし以上のものを感じているのではないか。 我々黒人は白人たちの様子を見に、行きつけのキャバレーに行く。 そして目にするのだ、白人たちが黒人の遊びに興じている姿を。 黒人のダンス、チャールストンを踊る姿を。 私はそれを羨ましげに眺める。 白人たちは踊る流行りのステップを踏み、足を跳ね上げ、身体をくねらせて踊り滑りはしゃぐ。 私よりもずっと上手に。 この黒人文化への関心は積極的に参加することで高まっている。 あたかもアフリカのダンスを目にした旅人が、突然その輪に吸い込まれ、民族的なリズムに魅入られたかのようだ。 北方生まれの白人たちも、ついに我々のリズムに乗ったのだ。 我らの音楽、我らの言葉を学び始めたのだ。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 もし火星人が地球に侵略してきたら、ブルースができる奴はどいつだ?火星にもあのフィーリングが欲しいって探し始めるよ。 トランペットをちょっと吹けば、よしお前は来いって言われて命拾いするんだ。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 1920年代の終わりからアメリカではハーバードのインテリや、旧体制派の音楽人が会合を開いて議論を繰り返していました。 真のアメリカ音楽はどこにあるか。 アメリカ音楽をどのように発展させるべきか。 彼らはアメリカ音楽を確立する偉大な音楽家が、いわゆる正統派の中にいると考えていました。 ヨーロッパ音楽の伝統を受け継ぐ者の中にアメリカのバッハがいるはずだと。 そして彼らは見落としていたのです、既に生まれていたアメリカのバッハを。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 みんな「ルイ・アームストロング」の真似をした。 どんな楽器でも彼のように演奏しようとした。 クラリネット、サックス、ベース、ドラム、「デューク・エリントン」もやった。 あらゆる楽器にアームストロングが欲しいってね。 シンコペーションのリズムがいいんだ。 彼はこんな風に吹く、こんな風にね、音が飛び跳ねたんだ!

【ナレーション】 1925年、「ルイ・アームストロング」「フレッチャー・ヘンダーソン楽団」で既にスターとなっていました。 彼はニューヨーク1のダンスホール、ローズランドで毎晩演奏しました。 アームストロングの演奏を目当てに、ミュージシャン達はこぞってヘンダーソン楽団のレコードを買い求めました。 そしてその演奏のパワーに頭を振るのです。信じられないと。 しかしアームストロングはもっと納得のいく演奏がしたいと、まもなくシカゴに戻りました 。 そのシカゴで、彼は「 ヒービー・ジービーズ」という斬新な曲を録音します。 ニューオリンズ以外ではまず聞いたことのない、独特な歌い方を編み出したのです。

【ジャズシンガー:ジョン・ヘンドリック】 真実かどうか、ちょっと怪しいエピソードってありますよね、でもこれは本当でしょう。 ルイが「 ヒービー・ジービーズ」をレコーディングしていた時、歌詞カードが譜面台から落ちてしまったんです。 当時のスタジオでは時間が貴重です。録音しなおすなんてことはありませんでした。それでルイは機転を利かせて、歌詞なしで即興で歌ったんです。いわゆるスキャットと呼ばれる歌い方です。

【ルイ・アームストロング】 「 ヒービー・ジービーズ」の録音のときなぜか歌詞を書いた紙がおちてしまったんだ。 でもレコード会社の社長が言うんだよ。 「やれ!続けろ」って。 それでピンと来たんです。 「スキャットだ」ってね。 昔はよくやってたんだ。 「やれ」って言うからやったよ。それがうまくいった。 演奏後社長が言ったよ、「スキャット唱法の誕生だ」

【ナレーション】 アームストロングの「 ヒービー・ジービーズ」は1926年に発売され、アメリカ中の黒人たちの間で大ヒットしました。

【ナレーション】 ブルースシンガー、「ベッシー・スミス」 黒人達に絶大な人気を誇る彼女はレコードセールスも良く、初期のトーキー映画にも出演。セントルイスブルースは黒人が主演した最初の映画の一本でした。 ベッシーは大酒飲みで大変な癇癪持ちでした 。ステージ上で気に入らないことがあると辺りのカーテンを引き裂くこともありました 。ライバルの存在を許さず、優秀なバンド仲間さえ信用しない、スポットライトを奪われるのが怖かったのです。

【トランペッター:ドク・チータム】 ベッシーは歌い終わると私に来るように言いました。 それで彼女のところへ行くとこんな調子なんです。 ちょっとあんた!そんなでかい音ださないでよ、私の歌なのに。って怒鳴りつけたんです。 確かに私は少しばかり大きな音を出してた、でもベッシーとのトラブルはその一度きりでしたよ。 彼女は素晴らしい人だった。 その歌は悪魔のようだった。

【ナレーション】 1927年7月、ベッシースミスはノースカロライナ州コンコードでコンサートを行いました。 会場は大きなテント、あまりの熱気にメンバーの一人が一息入れようと外に出ると、人種差別主義者の秘密組織KKK 団の男たちが向かってくるのが見えました。 逃げろという声にベッシーは耳を貸しませんでした。 テントから飛び出すと拳を振り上げののしりました。 被り物が好きならこのテントをやるよ、これを被ってとっとと失せな! ベッシーと観客達に圧倒され KKK 団の男たちは逃げ出しました。 そしてベッシーは再び歌い始めました。 誰もベッシーの邪魔はできなかった。 彼女の姪がこう回想しています。「黒人だろうと白人だろうと」

【ナレーション】 アメリカは1920年代好景気に沸き、誰もが享楽趣味に走ったジャズエイジと言われた時代です。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 白人の若手ミュージシャンでジャズを演奏しようとした人は大勢いました。 非常に才能に溢れた人もいればそうでない人もいたが、大半は優秀でした。 でも彼らも本当に偉大なジャズミュージシャンは黒人だとわかっていたんです。 黒人たちの演奏や歌を聞き、彼らはこう言いました。凄いこんな音楽をやってみたい! ビックスバイダーベックは、天才と呼ぶに相応しい最初の白人ジャズミュージシャンでした。 白人達にとってビックスは貴重な存在でした。彼が証明して見せたからです 白人だってジャズを演奏できる。 オリジナルのジャズを作り出せるとね。

【ナレーション】 ビックスバイダーベックは成功を約束されながら悲劇的な運命を辿りました。 ビックスが生まれたのはニューオリンズやシカゴなどの大都会ではなく、アメリカ中部の農業地帯でした 。 1903年3月10日 アイオワ州ダベンポートでビックスは生を受けました。 もし勤勉で信仰心のあつい父親が息子を思い通りに育て上げていたら、ビックスはジャズとは縁のない人生を送ったでしょう 。ビックスは3歳で音楽の才能を発揮し始め、8歳の時には先生よりもうまくピアノを弾きこなしました 。 しかし音符を一つ間違えただけでも自信をなくす性格だったため、楽譜通りに弾くことを重視する音楽には、次第に息苦しさを感じるようになりました。

【ナレーション】 第一次大戦後戦争から戻ってきたビックスの兄は、蓄音機とレコードを持ち帰りました。 その中にあったのがオリジナルディキシーランドジャズバンドタイガーラグです。 ビックスは夢中になりました。 隣人からコルネットを借りレコードを真似て吹き始めました。 やがてビックスは停泊している蒸気船のジャズバンドの演奏に耳を傾けるようになりました。 ビックスに衝撃を与えたのはルイアームストロングです。 アームストロングがまだ世に出始めたばかりの頃でした。

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】 心の中で何かがはじけたんです。 リズムや音の無限の可能性を感じたのかもしれません。 それがビックスの内側にあるものとピッタリと一致したのでしょう。 でも彼はジャズが両親の望むものとはかけ離れていることを知っていました。 ジャズを聴いたら全てをぶち壊してしまうのではないか。 でも彼が本来の自分に目覚めるためには必要なことでした

【ナレーション】 ビックスはコルネットで頭角を現し、すぐに年上のミュージシャン達と演奏するようになりました。 そして演奏の合間にバンド仲間と密造酒を飲むようになります。 ショックを受けた両親は1921年、18才のビックスをイリノイ州レイクフォレストにある厳格な寄宿学校に転入させました。しかしジャズを諦めさせようという両親の計画は失敗に終わります。 レイクフォレストはシカゴまで列車ですぐの距離にあったのです。 シカゴと言えばまもなくルイアームストロングがその演奏で一躍有名になる場所です 。 一週間もしないうちにビックスは兄への手紙にこう書いてきました。 近くにある3軒のクラブを回って最高の黒人ジャズバンドを探している。 いいバンドの演奏を聴くためなら地獄にだっていくさ。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ミュージシャンは音楽を愛し、自分の楽器を愛する。 自分と同じ楽器で誰かがものすごい演奏をすると、嫉妬と尊敬と愛情が入り混じった気分になるんだ。 みんなうまくなりたいがためにアームストロングの世界最高の演奏を聴きに行った。 でも白人たちは言われただろうね、黒人の音楽なんて聴くな!あんなの音楽じゃない。 だけど気づくんだ、黒人の音楽が一番心に響く、自分の中に共鳴するものがあると。 そらぁ胸躍る体験だけれど恐ろしいことでもある。 なぜならジャズを受け入れるということは、あの時代に黒人を人間として受け入れるということを意味するのだから。

【ナレーション】 プロデビューしたビックスは若くしてスターの仲間入りを果たしました。 そして1926年彼はゴールドケット楽団と共にツアーに出かけます。

【クラリネットプレイヤー:アーティ・ショー】 白人のビッグバンドとして最初に名を馳せたのがジンゴールドケット楽団でした。 あのバンドには優秀なミュージシャンが集まっていて、特に20年代の演奏は素晴らしかった。 クレメンタインなんて今聴いてもスイング感がたまらないよ!

【ナレーション】 ゴールドケット楽団の音楽面でのリーダーであり、ビックスの親友だったのがサックスプレイヤーのフランクトランバウアーでした 。トランバウアーはそつがなくビジネスライク、反対にビックスは支離滅裂で精神的に不安定でした。 しかしジャズを演奏するクリエイティブな時間だけは、ふたりは最高のパートナーでした。 株式市場の記録的な高騰に沸いた1927年、ビックスとトランバウアーは二人の最高のヒット曲となるシンギンザブルースを録音しました。 オープニングのトランバウアーのソロは軽快で柔らかい、そしてビックスバイダーベックの華麗なコーラスへと続いていきます。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 ビックスのコルネットは縦貫豊かでシング感がありました。 何かとても大切なことを語りかけられているようなそんな気にさせるんです。

【ナレーション】 シンギンザブルースは白人黒人を問わず、若い世代に大きな影響を与え多くのミュージシャンたちがこの曲のフレーズを真似しました。

【ナレーション】 1902年、シカゴのウエストサイドにデビッドグッドマンというユダヤ人が、迫害を逃れてポーランドから移住してきました 。そして19o9年5月30日 ベニーグッドマンが生まれます。 グッドマン一家は家賃が払えないために住まいを転々として、時には暖房のない地下のアパートで暮らしたこともありました。ベニーグッドマンは回想しています 食べ物に困る日もあった、貧しい食事どころじゃない全くなかったんだ。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 どうしようもない状況でした。 父親はシカゴの食肉工場でラードをシャベルで掬う仕事をしていました。 だから体にラードや臭いが染み付いていたんです。 家でもその匂いがしていたんでしょう 。 ベニーはあの匂いは生涯忘れられないと語っています。

【ナレーション】 子供達には将来いい暮らしをさせよう、父親は心に誓っていました。 そして隣の少年たちがダンスバンドで演奏し、いい収入を得ていると聞くと、息子たちもその道に進ませようと決めました。 父親は週に50セントの金をかき集め、10歳のベニーにクラリネットを習わせました。 ベニーはすぐに非凡な才能を発揮し、並々ならぬ真剣さで技術を習得していきました。 その熱意は生涯続きます。

【伝記作家:ジェームズ・リンカン・コリアー】 ベニーは明らかに誰よりも上手かった。 若干12歳で既に自信に満ち溢れていたんです。立ち上がって演奏するのも平気だったし、どんなステージにも物怖じせずに上がりました。 自信があったんです。

【評論家:フィービー・ジェイコブズ】 野球少年がバットを大事にするように、ベニーは音楽を愛しました。 クラリネットは彼にとって全てでした。彼が奏でる音は絶妙で常に完ぺきだったのです。 ベニーはシカゴのジャズを聴いて育ちました。 ルイアームストロングやすばらしいミュージシャンが大勢いたのです。

【ナレーション】 1925年8月サウスサイドの野外ホールで演奏している時、ベニーグッドマンはカリフォルニア行きの誘いを受けます。 彼はベンポラック率いるバンドに加わることになりました。 カリフォルニアに行くには両親の承諾を得なければなりませんでした。 ベニーはまだ16歳だったのです。 ベニーは今や家族全員を養えるだけ稼げるようになっていました。

【ナレーション】 禁酒法時代、ニューヨークのハーレムには500以上ものモグリの酒場がひしめいていました。 その多くは曖昧な看板を出し、狭い裏通りに入り口を構えていました。 その中で最も有名だったのがコットンクラブです。 客として入ることは許されない黒人も、ミュージシャンとしてなら別でした。 コットンクラブで演奏すること、それはあらゆる黒人バンドの夢でした。 1927年、クラブの経営者であるギャングたちが新しいバンドを探しているという話がひろまりました。 ニューヨークアムステルダムニュース、ニューヨークのナイトライフで、今最も輝いているのがデュークエリントンだ。一流の批評家たちがアメリカNO,1と呼んだバンドのリーダーである。 つい最近まで新顔だったエリントンも、今日からはニューヨーカーだ。さぁお手並み拝見といこう! 4年近くデュークエリントンはタイムズスクエアのはずれのクラブでホットなジャズを演奏していました。 ある時彼はマネージャーのアーヴィングミルズをやといました。 ミルズはエリントンの稼ぎと音楽出版権の半分を得る代わりに、彼をスターの座に押し上げる大役を引き受けました。ミューズは早速コットンクラブオーディションにエリントンを送り込みました。 そしてエリントンは仕事を獲得します 。 これがデュークエリントンの人生の転機でした エリントンの風変わりな音楽に、やや不名誉な呼び名がついたのもコットンクラブでした。 耳慣れないハーモニーアやコードに満ちた音楽は、ジャングルミュージックと呼ばれたのです。 しかし何と呼ばれようとエリントンの音楽はホットで、エキゾチックセクシーでした。 エリントンは仕事に励み、半年ごとに変わるショーのために次々と曲を書きました。 コットンクラブは彼にとって修業の場でした。 ここで身につけた作曲法を彼は生涯守り続けます。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 エリントンはすべて独学で学びました。 何から何まで自分で習得していったのです。 実践することで音楽を理解したのでしょう。 彼は個々のプレイヤーの演奏スタイルを頭に入れた上で曲を作り上げていきました。 まずあるプレイヤーのトランペットのパートを作り、そこにバリトンサックスやバスクラリネットが加わってくるといった感じです。 また不協和音を使い、色んなハーモニーを作りました。 ルールを打ち破り斬新な音色を出すことで、独自の作曲法を編み出したのです。

【元エリントン楽団:トロンボーンプレイヤー:ジョン・サンダーズ】 デュークは自分には何か特別な物を伝える能力があると信じていた。 彼は独特のハーモニーコツを体得していました。 それぞれの楽器の音色も完全に把握していました。 彼にとってトランペットは一つの個性です。 サックスも単なる楽器ではなく一人の人間でした。 楽団にはハリー・カーネーという華麗な音を聞かせるバリトンサックスプレイヤーがいました。そこでエリントンはバリトンを全面に出し独特のサウンドを生み出しました

【ナレーション】 エリントンの音楽は「ジャングルミュージック」と呼ばれましたが、その音楽の根底にある精神は、すべてアメリカの黒人の生活から生まれたものでした。 ブラックビューティ、ジュビリーストンプ、ハーレンフラットブルース、全て黒人たちの生活に根ざしていました。 なぜ君の音楽はそんなに不協和音に満ちているんだ?と聞かれ、エリントンはこう答えました。 僕たち黒人のアメリカでの生活が不協和音そのものじゃないか。 彼はこうも言っています。僕はジャズを演奏しているんじゃない 人々の自然な感情を表現しようとしているんだ。

【元エリントン楽団:トロンボーンプレイヤー:ジョン・サンダーズ】 デュークはなによりも仲間を大切にしました。 彼は仲間の黒人たちの生活を、新しい方法で世に伝えました、音楽を通じてね。 人々の感情や人生の浮き沈みなどを捕らえていたのです。 曲のタイトルを見ればデュークが回りの人々を非常に意識していたことがわかります。黒と茶の幻想など、初期の作品からすでにエリントンは人々の気持ちを苦しみや、喜び悲しみといったものを表現していたのです。

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】 デュークエリントンは音色やハーモニー、リズムのあらゆる可能性を開拓しました。そしてその全てが私たち黒人の文化であると、伝えようとしていたんです。 すべてが私たちの表現方法なんだと。 重要なのは人種についての考え方です。 人種とはそれ自体限りない可能性を秘めたものです。 規制や命令や単なる苦しみを生むものではありません。

【ナレーション】 デュークエリントンは、生涯にわたって自分が特定のジャンルに分類されることを嫌いました。 彼にとって音楽という言語は、壁を打ち破り全ての人々 一つにする手段だったのです 。

【ナレーション】 1928年夏、シカゴ劇場。 ビックスバイダーベックはポールホワイトマン楽団の一員として演奏していました。 ビックスはアームストロングに多大な影響を受けていました。 そのアームストロングが黒人専用のバルコニー席に座り、この時初めてビックスの演奏を生で聴きました。 美しい音が身体を貫いた。と、アームストロングは回想しています。 そしてついにビックスは、最も崇拝するアームストロングと共演するチャンスを得ます。 二人は朝早い時間にサウスサイドのクラブに籠りました。 アームストロングは言います。 ドアに鍵をかけそして吹いた。二人でどれだけいい音が出せるか試したんだ。 しかしヴィックスはアームストロングとともにレコードを録音したり、ステージに立ったりすることはできませんでした。 ジャズエイジの絶頂期にあってなお、音楽界には厳しい人種差別が残っていたのです。

【ライター:マーゴ・ジェファーソン】 なんて気の毒な人でしょう。ビックスは黒人のバンドと共演すべきでした。 黒人たちと演奏できないということがビックスを傷つけたんです。 アーティストとしての彼は、人種差別の犠牲者と言えるでしょう。 自分と同じレベルの、あるいはそれ以上の人と出会う機会を奪われたんです。 ジャズミュージシャンにはとても必要なことなのに。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 ビッグスバイダーベックの悲劇は、アメリカの悲劇です。 彼は白人でありながら、黒人の文化や社会が受けている抑圧を身をもって理解してしまった。 ジャズが彼に、この社会的矛盾を見せつけてしまったんです。 ビックスはジャズの本当の意味を知り、それが彼の心を引き裂きました。

【ナレーション】 1928年11月30日。 ビッグスはポールホワイトマン楽団の他のメンバーとともに、クリーブランドにやってきました。楽団は一週間の興行を予定していました。 ビックスはアルコールの量を抑えられなくなっていました。 飲んでも気が滅入る一方でした。 彼は演奏をすっぽかし、出だしを間違え、ステージでも酒を口にするようになりました。 楽譜には誰かが書いた走り書きが残っています。 起きろビックス! ビックスは、ひっそりとアルコール依存症の治療センターに入院しました。 しかしアルコールを断つことができず、ホワイトマン楽団に戻ることは二度とありませんでした。 1931年、ビックスは一人ニューヨークで暮らしていました 。 8月のある夜 、ビックスはクイーンズのみすぼらしいアパートの一室で、アルコール禁断症候群の発作で亡くなりました。 彼の異変に気づく人は誰一人いませんでした。 ビックスバイダーベックはこの時まだ28歳でした。

【ナレーション】 ルイアームストロングは後にこう語っています。 みんなビックスのように演奏しようとした。 でもあいつのように吹ける奴は未だにない。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 アームストロングのマホガニーホールストンプという曲は、音がダンスしているみたいなんだ。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 即興演奏は昔からありました。 ベートーベンは即興で有名でしたし、バッハの変奏曲も即興的に展開します。 しかし即興演奏は記録できなかった。楽譜に書かれた完成作品だけが残ったんです 。ベートーベンの時代には録音技術がなかったのでね。 ところがアームストロングとジャズには録音技術が伴っていた。 当時音楽は、まだ楽譜の文化だったので、即興には偏見がありました。 しかしアームストロングが1926年から27年にかけての8回の演奏で、それを覆したのです。 即興演奏が思いつきではなく、情感にあふれ、長く楽しめるものであることを証明したのです。

【ナレーション】 1925年から28年の間に、アームストロングは65回のレコーディングを行いました。 ギャラは片面につき50ドル、印税はありませんでした。 レコードが発売されると、同時代のミュージシャンたちは驚きと賞賛の声を上げ、ジャズは大きく変貌しました。

ホットファイブや、ホットセブンといったアームストロングのバンドは、レコーディング専門のバンドで大半がニューオリンズ出身のミュージシャンでした。 その中にはジョニー・ドッズ、ジョニー・センシア、キッド・オリ、そして妻のリルもいました。 彼らのレコードは斬新でした。

【評論家:ゲイリー・ギディンズ】 ホットファイブや、ホットセブンの最大の功績は、ジャズが芸術であることを初めて世に示したことでしょう。 アームストロングはほとんど自分の力だけで、アンサンブルの音楽と捉えられていたジャズを、一人の卓越したプレイヤーが奏でるソロの芸術へと導いたのです。 そしてクラシック音楽の基本に、平均律による音階があるのと同じように、ジャズの根底にはブルースのフィーリングがあるということを示しました。 ブルースこそジャズの血であり生命なのです。 さらにアームストロングはアメリカ音楽に大きな革新をもたらしました。 スイングをうみだし、いわゆるモダンタイムと言われる新しい流れをうみだしました。 1928年の彼の即興演奏に、私たちは今も興奮させられます。 これが芸術でないとしたらなんだというのでしょう。

【ナレーション】 1928年6月28日。 アームストロングは、ジョーオリバーの名曲ウエストエンドブルースをレコーディングしました。 それはジャズ史上最も名高い一枚になります。 アメリカの1920年代が、そこに凝縮されていたのです。 そしてルイアームストロングの名はジャズ界最初の天才ソロプレイヤーとして、永遠に語り継がれることになります。

【トランペッター:ウィントン・マルサリス】 トランペッター昔からファンファーレを吹いていました。 先ずは象の真似だ! この音ファンファーレみたいでしょう。 どけどけって感じ それから古い映画でしょっちゅう聞かれるようなオーソドックスなファンファーレもある こんな風なね! ベートーベンならこんな感じ。 でもウエストエンドブルースはこうだ。 ファンファーレでもまるで別世界のファンファーレだ。 アルペジオも入ってるし、こんな風に半音を駆使してブルースも入っている。 全てが凝縮されているんだ。

【ゲイリー・ギディンズ】 ある堅物の音楽教授にウエストエンドブルースのレコードを聞かせたら、もう一度かけてくれと言われたんです。 沈黙の後彼はこう言いました。 これは最も完璧な三分間の音楽かもしれない。